1997年、4大証券会社のひとつ「山一證券」が経営破たんしました。当時銀行と証券会社は絶対潰れないといわれていたときに日本でも一流企業・巨大証券会社だった山一証券が経営破たんしたことは世間に大きなショックを与えました。同時に日本経済にも大きな打撃を与え、当時の社長が「社員は悪くありません!」と涙ながらに頭を下げる姿もニュースや情報番組で連日流され、大企業のトップのその様子にもショックを感じました。なぜ「一流企業」山一証券は経営破たんしたのでしょうか?
簿外債務はバブル崩壊で更に加速した
写真:Wikimedia Commons
当時、山一証券は野村證券・大和證券・日興證券と並ぶ日本の4大証券会社。1897年創業で100年を向かえる法人関連に強い山一と称されることもありました。70~80年代半ばまでは高度経済成長の波に乗って、特に80年代は加速度的なバブル景気があって空前の好景気に沸いていました。ネットのない当時は実店舗である証券会社を通して株の売買をされていましたから、その手数料たるやとんでもないくらいの規模で大口の法人顧客を多数抱えて売上げを伸ばしていました。
写真:いらすとや
証券会社には営業特金というものがあって、これは証券会社が顧客から預かる運用資金です。法人顧客を多く抱える山一は、この営業特金契約を多く取ることが会社の成長には重要でした。この契約を多く取るため、利回りを保証する行為「ニギリ」が頻繁に行われ更に売り上げを伸ばしていきました。こうして営業特金によって売上げを伸ばしていた最中、突然のバブル崩壊が起こり、一転運用失敗の損失補てんに追われることになったのです。営業特金は一気に1300億円の含み損に変わり、これを隠蔽するために、他社に一時売り飛ばし決算が終わったら買い戻すという「飛ばし」が散々行われ、また海外に多数のペーパーカンパニーを作り、そこに損失を移して帳簿上、債務が少ないように偽装したのです。
隠ぺいに次ぐ隠ぺいで自転車操業に陥る
いつか景気が回復し、株価が再び上がれば含み損を回収できるという経営陣の思惑のもと、この巨大債務は先送りされていきました。しかし景気は一向に回復せず、それどころか株価は下がり続け偽装した簿外債務は更に膨れ上がっていきました。自転車操業を続けた後1997年についにこれまでの巨大債務と不正行為が明らかになり、山一証券は自主廃業に追い込まれたのです。
写真:qBiz 西日本新聞経済電子版
当時社長だった野沢正平氏は社長就任当時、2600億円にものぼる簿外債務の存在すら知らず、3ヶ月後に経営破たんの涙の記者会見を行ったのです。「社員は悪くありません、悪いのはすべて経営陣です」という絶叫にも似た言葉は、自分は偽装には加担していない!といっているようにも聞こえてきます。
写真:日経ビジネスオンライン – 日経BP社
自主廃業のニュースが流れた後店頭には運用資金や株券の返還を求めて顧客が殺到、大半の社員や経営陣は逃げるように他社に移っていきました。そんな中最後まで会社に残留し、経営破たんの真相を追究しながらも清算業務の激務を行った社員が多数いました。業務管理本部の12人で、この部署は主に会社の不正を監視するのが目的のものでしたが、利益第一主義の証券会社になかでは、何かと疎まれた存在でした。会社の不正を長年チェックしながらも是正できなかった自責の念が、会社に最後まで残留した理由なのかもしれません。
まとめ
写真:ダイヤモンド・オンライン
山一証券の経営破たんは、バブルの崩壊と社内不正行為によって起きましたが、同時に日本の古い組織体質の問題も露呈しました。日本企業の終身雇用制度や年功序列制度が抱える問題も大きくクローズアップされました。山一証券の破たん後、大きな銀行の破たんも相次ぎ、ダメなものをダメと言えない社風・日本風土のままでは2度目の山一が出てくると度々言われ、その後徐々にですが、日本全体の企業の経営体質は変化していったように感じます。