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大原麗子わがままだった3つの理由とは?徹底検証!


大原麗子は62歳という若さでこの世を去っています。生前はわがままな女優として世間では有名でした。大女優として生き抜いた大原麗子のわがままな理由をまとめてみました

 

理由1.女優魂


写真 :楽天WOMAN

大原麗子は1940年代生まれの女優さん。彼女のデビューは東京放映の社長大野直にスカウトされたのがきっかけです。当時の女優は映画の製作が中心で、今の様なテレビドラマはまだたくさんは存在していませんでした。映画の製作は何か月時には何年に及ぶケースもあるほど、1シーンにすべてをかけて演じ切ります。大原麗子もそんな銀幕のスターですから、撮影にかける意気込みや覚悟は、人並みではありませんでした。70年代以降はテレビの連続ドラマがお茶の間の人気を呼んで、すべてスピーディで簡潔に撮影が進んでいきます。しかし大原はその手早さがどうしても女優としての信念にあわず、デレクターや監督と、よく衝突をしました。こういうエピソードが、世間では大原麗子のわがまま。や扱いにくい女優としてのレッテルを張ってしまうことになるのです。point 426 | 1

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写真:BIGLOBEウェブリブログ

デビュー当時にマネージャーをしていた佐藤さんと、大原との出会いは、次のようないきさつがあります。1965年デビューして間もない19歳の大原は、そのスイートなルックスからは想像もできないほど、勝ち気でストイックな性格でした。事務所からあてがわれた男のマネージャーを次から次へと変更させ、とうとう9人のマネージャーが大原の元を去ったと言います。そんなときに白羽の矢がたったのが、会社で唯一の女性マネージャー佐藤さんでした。それ以来2009年に大原が亡くなるまで、公私にわたって大原の側についていた大原の理解者の一人だったのです。point 329 | 1

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理由2.不器用


写真:楽天ブックス

テレビの芸能レポーターでも知られる前田忠明が、大原麗子の3回忌に特別出版として「大原麗子・炎のように」を出版します。芸能のレポーターから見たひとりの女優の生き様を評伝として記したものです。後にこの本がドラマにもなりますが、あまり知られていない本当の大原麗子の姿をこの本を読むことで、明らかに世間に誤解されていた悲しい現実を目の当たりにします。著者である前田は、本の中で「馬鹿がつくほど正直で、不器用でさみしがり屋で、それなのにぬるま湯に安住することを良しとしなかった人。優しい言葉や温かい言葉に背をむけ、歯を食いしばって全速力でその人生を駆け抜けた孤高の人。女性としてもっと楽に生きれたと思うけど、これが貴方らしい生き方」と大原麗子の不器用で信念を突き通す生き方を、彼女らしいと締めくくっていました。point 422 | 1

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理由3.ギランバレー症候群


写真:So-net

大原麗子は29歳の時にギランバレー症候群にかかってしまいます。この病気は発症すると、免疫力がなくなるため、両手両足の筋力が急激に低下します。2週間から4週間で症状がピークに達したら、通常は半年くらいで完治する病気ですが、後遺症が残る人もいます。大原麗子は昭和50年は2度の結婚と離婚。病気との闘い、精神的にも相当ダメージを受けてしまいます。1999年大原が53歳の時に、また不幸はやっていきます。完治していたとみられたギランバレー症候群がまた発症したのです。大原はすぐに休業をして、治療に専念しますが、どうやら病状は良くなることはなく、そのジレンマから多くの知人や、評伝を出した前田忠明にも電話でののしっていたといいます。大原の不器用ながらも本音の優しい気風の良い性格からは考えられないと、友達や俳優仲間さえ、足が遠のいていくのです。point 445 | 1

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まとめ


写真:So-net

大原麗子は2009年8月、音信不通のため大原の自宅を訪ねた弟によって、死亡しているところが発見されます。死後すでに3日が経過していました。大原麗子は自身のストイックさから、周囲に誤解を招く言動や行動をし、世間ではわがままな女優として悪名高き人となってしまいましたが、妥協が絶対にできない信念の人だったのでしょうね。孤独死といわれて悲劇の女優と思われていますが、元マネージャーの佐藤さんは、訃報を聞いたとき、麗子さんは天寿を全うしたんだなと思ったと語っています。大原麗子は女性としての人生を選ばず、女優としての人生を選んだ人だったんですね。point 337 | 1

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