藤圭子という名前を聞くと、自殺してしまった宇多田ヒカルの母親というイメージを持っている人が多いのではないでしょうか。しかし、平成の日本を代表する歌姫宇多田ヒカルを産んだ藤圭子自身が、かつて昭和の歌姫として一世を風靡したことがあるのです。
藤圭子は一人の歌手として素晴らしい存在だった
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藤圭子は1951の年7月5日に、岩手県の一関市で生まれました。藤圭子という名前は芸名で、当時の本名はは阿部純子でした。彼女は幼少期から、浪曲師だった父親と三味線奏者だった母親と共に、貧しい旅暮らしの生活を送っていました。暴力的だった父親におびえながら、少女時代から流しの歌手として働いて家族を支えていた彼女の人生の転機となったのが、17歳の時にあるレコード会社の作曲家からスカウトを受けたことでした。彼女はそれをきっかけに上京して、歌手としての修業を始めます。
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その修業時代にも貧しい生活は続きましたが、彼女に輝いたものを感じた作詞家の石坂まさをのプロデュースによって、1969年の9月に「新宿の女」というタイトルの演歌でデビューを果たします。まだ19歳の若くてきれいな女性が、迫力のあるハスキーな声で暗い女の情念を歌い上げるというアンバランスさが魅力的だとして、多くの人が彼女に注目しました。その後も「女のブルース」、「圭子の夢は夜ひらく」、「命預けます」などのヒット曲を発表し続けた彼女は、昭和を代表する歌姫の一人となったのです。しかし残念なことに、1974年に喉のポリープの手術を受けたことが歌声に悪影響を及ぼしたため、1979年に歌手としての活動にピリオドを打ってしまいました。その後に復帰して何曲も歌を出してはいるものの、全盛期と言える時代はそう長くはなかったと言えるでしょう。
一人の女性としての人生は波乱に富んでいた。
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藤圭子の歌手としての人生は決して順風満帆と言うわけなかったのですが、多くの人の心に残る名曲をいくつも残しているので、きっと幸せだったと言えるでしょう。しかし一人の女性としての人生は、あまりに波乱に富んだものでした。彼女はまだ歌手として現役だった1971年に、同じ人気歌手の前川清と結婚したのですが、忙しさによるすれ違いが原因となり、早くもその翌年に離婚することとなってしまいました。その後彼女は、1982年に音楽プロデューサーの宇多田照實と再婚し、翌年には宇多田ヒカルが誕生しました。
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ヒカルの存在は彼女にとって大変大きなもので、娘のことを天才だと自慢していた姿はとても幸せそうだったと言われています。しかし、照實との結婚生活も順調とは言えないもので、ちょっとしたことがきっかけで離婚をしてはまた再婚するという、奇妙な夫婦関係が長く続きました。また彼女には浪費家という一面があり、ギャンブルに使用する目的だという多額の現金を巡り、アメリカで没収騒動を起こしたこともありました。そして彼女にとって最大の不幸となったのは、精神的な病気にかかってしまったことでした。病気による奇行や被害妄想が原因でまともな生活が送れなくなってしまった彼女は、2013年の8月にマンションから飛び降りて自殺してしまったのです。
藤圭子の残したものはとても大きい
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藤圭子は歌手として大きな成功を収め、また才能豊かな娘を産み育てることができたものの、不幸にも精神の病気が原因となり、その生涯を自ら閉じることになってしまいました。しかし彼女は数多くの名曲、そして愛娘である宇多田ヒカルを残した女性として、いつまでも多くの人の心に生き続けることでしょう。