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マドンナ大原麗子の生い立ちと晩年


東京の文京区で、老舗の和菓子屋の娘として1946年に産声をあげます。
地元の中学、高校を卒業し、
幼少時に、父から散々な暴力行為を受け、顔が変形するほど腫れあがった記憶も子供ながらに染みついていたようです。両親の離婚後は、母親に引き取られ父親に引き取られた弟とは別々に暮らすようになりました。母子家庭という貧しい生活の中でも、バレエ教室に通い、結果的にこのことが後の女優、大原麗子としての芽を開花させる決め手になったのではないかと思われます。


写真:NEWSポストセブン

 

 

芸能活動を始めたきっかけ


写真:Pinterest

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地元の中学と高校を卒業し、芸能界入りが確定します。芸能活動を始めるきっかけとなったのは、東京放映の社長にスカウトされたことが最初の第一歩でした。脇役として出演しながら、テレビドラマのデビューが決まり東映へ入社します。本格的に映画の世界で活動が主となりますが、ホステス役などの水商売での出演がほとんどでした。東映の契約の終了とともに、渡辺プロダクションへ移籍します。

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絶大な人気を集めた大原麗子


写真:Celebrity Times

その後は、テレビドラマを中心に、ほのかな色気と落ち着いた雰囲気を持ち合わせている個性的な女性像を演じます。
大原麗子は、美人で潤いのある独特の演技を発揮し、多くの庶民に受け入れられ絶大な人気を集めました。
プライベートでは、2度の結婚離婚を繰り返し、波乱万丈な生涯を全うします。
最初の結婚相手は、俳優の渡瀬恒彦さんです。5年間という短い結婚生活でしたが、はっきりとした離婚原因はいまだに不明で真相は闇に葬られたままです。2度目も約4年ほどの短い結婚生活でした。お相手の森進一さんとは、「家庭内に男が2人いた」と自身の活発な性格を表現している言葉が、大変印象的でした。point 373 | 1

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ギランバレー症候群や乳がんの手術


写真:bbs.krdrama.com

神経疾患であるギランバレー症候群や乳がんの手術を受けながらも、ドラマなどでは大原麗子として元気に活躍して、芸能活動も淡々とこなす日々が続いていました。
しかし、ギランバレー症候群の再発により、リハビリと筋力トレーニングの為、芸能活動を休止し、治療に専念します。ギランバレー症候群とは、急性、多発性の根の神経に炎症をきたす病気で、筋肉を動かす四肢に力が入らなくなり動かせなくなります。重症の場合は、歩行困難にもなるという大変恐ろしい病気です。
自宅での療養生活が続く中、母親の介護をし家にこもることが中心となる生活になってしまいました。point 355 | 1

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偉大な女優、大原麗子


写真:雑居時代

華やかな芸能界を思い出しながら、限られた時間の中で大原麗子自身が出演したDVDの観賞をしながら、友人との電話での会話を楽しんでいたようです。しかし、ギランバレー症候群の担当の主治医が亡くなった後はうつ病を発し、これまで以上に友人や知り合いなどに電話をする毎日が続いていました。
一人暮らしであった為、誰にも看取られず寂しい最期を迎えましたが、芸能界では、偉大な女優、大原麗子として数々の痕跡を残し、たくさんの人たちに悲しまれ惜しまれました。point 292 | 1

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