7月9日、ジャニーズ事務所創業者、ジャニー喜多川さんが87歳で死去しました。ここ数年、ジャニーズ事務所は幾多の激震に見舞われてきました。所属タレントのみならず多くの芸能界の人々に慕われてきたジャニーさんの訃報は、そのなかでも大きな衝撃となりました。そんなジャニーさんが生前に「ジャニーズ帝国」の思いについて語っていたようです。
舞台へかける思い
2011年9月、ジャニーさんが「最も多くのナンバーワン・シングルをプロデュースした」「最も多くのコンサートをプロデュースした」として、ギネス・ワールド・レコーズに認定。滅多にインタビューを受けず、表舞台に出ることを嫌ったジャニーさんですが、当時、ある演劇記者からインタビューを受けたようです。
およそ2時間にも及ぶインタビューのうち、ほとんどが演劇を中心とするショービジネスについての話だったようです。
ジャニーさんは繰り返し「アメリカのブロードウェイなんかに負けたくない」といいながら舞台へかける思いを語っていたといいます。
ジャニーズの舞台はラスベガス風のダイナミックな演出だと知られており、俳優が自在に宙を舞ったり、本物の水を使ったりする単なる集客目的のアイドル舞台ではないのです。
「客席がいかに楽しんでいるかをまず見る。客席半分とステージ半分。ステージより客席の方が大切なわけですよ」
「たとえば『滝沢歌舞伎』だったら、ご年配のお客さんが身を乗り出して見ていたりする。共鳴がなかったら、お客さんはついてきません」(ジャニー喜多川)
芸能界を目指す原点
ジャニーさんは、米ロサンゼルスで育ち、幼いころからミュージカルやショーを浴びるように見てきました。また、10代のころ、訪米した服部良一さんや美空ひばりさんらの通訳を任され、タレントのブロマイド写真をつくると非常によく売れたそうです。売れた収益はすべてタレント本人に渡していたといいます。
そのようなことがあって、子どもながらにも大人たちから信頼されることに喜び得たそうです。そんな体験が、芸能界を目指す原点となったようです。
日本の芸能界は遅れている
1962年にアイドルグループ「ジャニーズ」のマネジメントのため、ジャニーズ事務所を創設。
「カメラやテレビ、自動車では日本が先端を行っていたのに、なんで芸能界だけはこんなに遅れているのか」
「最初は男が足を上げて踊るなんてみっともないと言われた。そこからスタートして、男が踊っても当たり前だという風に、僕はしてきたと思ってるんです。もうぼちぼち、日本の芸能界が先端に行ける時代にならなきゃおかしいんですよ」(ジャニー喜多川)
また、タレント育成にも信念を持ち、「オールマイティーにやっていかないとタレントにはなれない」
「『俺は踊れる』『俺は歌える』だけでは、将来的に一つのタレント(才能)に過ぎなくなってしまう」
「SMAPの中居(正広)くんは全然しゃべれない人間だったけど、いましゃべりを専門にやってるわけでしょ。彼なんか一言しゃべるのが大変でしたもん。それがまた楽しいんですよ」と口にしていたようです。
本人にやる気があるか
これまでジャニーズから数々の人気アイドルを輩出してきたのは、まぎれもなく、タレントの原石を発掘し、育て上げるジャニーさんの類まれな「目利き」があればこそ。しかし、ジャニーさんは「選ぶのではなく、こちらが選ばれている」と言ってはばからなかったようです。
「光GENJIでローラースケートを滑るという時に、手をあげたのがあの7人だった。君たち、滑れるの?と聞いたら『滑れない。でも楽しそうだからやってみたい』と。それで見事に成功しました」
「Kis-My-Ft2だってそう。ローラースケートなんてやったことないですよ。でも、君たちはやらなきゃいけないんだ、と言うと全部やる。できるんです。ルックスがなんだという以前に、本人にやる気がなければ絶対無理ですよ」(ジャニー喜多川)
まとめ
SMAP解散、TOKIO山口達也さん、滝沢秀明さんの引退、嵐の2020年での活動休止表明など、ジャニーさん亡き後、ジャニーズはどのように変化していくのでしょうか。今後の行く末に注目です。