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70年代音楽シーンにおける吉田拓郎の影響力


1972年(昭和47年)当時の日本の音楽界は歌謡曲、その中でも演歌が中心に売れていた時代でした。
プロの作詞家が歌詞を書き、プロの作曲家がメロディーを書き、プロの歌い手が必死に歌い上げていた時代でした。
そんな時代に突如として現れたのが吉田拓郎でした。「僕の髪が肩まで伸びて 君と同じになったら 約束通り、町の教会で結婚しようよ」 そうです。曲のタイトルは そのままズバリ、「結婚しようよ」 。当時といえば結婚=家と家との結びつき、という思想が根強く残っていた時勢だったにもかかわらず、そんな簡単に結婚しても良いんだぁ、という印象を与えました。

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写真:plaza.point 59 | rakuten.point 67 | co.point 70 | jp

歌詞といい曲調といい独特な歌い方といい 日本中が衝撃を受けた一曲でした。音楽評論家たちは挙(こぞ)って、
「ふざけている」 「音楽をなめている」などアカラサマな拒絶反応を声高に書き染めていた時代でもありました。
一方、若者たちは彼を「時代の先駆者」あるいは「日本音楽界の革命児」として一気に注目を浴びる存在となったのです。
同年、引き続きリリースされたのが「旅の宿」。ぶっちゃけ婚前旅行の歌です。当時としては 親には内緒で隠れながら行われていた行為を、さも当たり前、というサラっとした歌い方は「結婚しようよ」に続く、大人たちへの第二の宣戦布告とも言われました。point 349 | 1

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写真:blogs.point 59 | yahoo.point 65 | co.point 68 | jp

それまでは演歌一筋だった人たちの中にも「旅の宿」をきっかけに吉田拓郎を支持する層が増えていきました。
1973年(昭和48年)には歌手・舞台女優であった梓(あづさ)みちよへ「 メランコリー」を楽曲提供。失恋をした大人の女の心情をアッケラカンと表現した曲調は既に「拓郎節」という言葉が芽生え始めた、とも言えます。
1974年(昭和49年)、それまで演歌一筋であった森進一へ「襟裳岬」を提供。空前の大ヒットとなり、もはや日本を代表する作曲家として認定されました。point 296 | 1

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写真:youtube.com

1975年(昭和50年)、盟友の 故かまやつひろし氏へ「我が良き友よ」を提供。家庭を持った男の悲哀を拓郎流に軽やかに表現した名曲となりました。

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写真:wesugisan.point 63 | exblog.point 70 | jp

1977年(昭和52年)、人気絶頂であったキャンディーズには「やさしい悪魔」を提供。危険な男と知りながらも恋に堕ちていく女の子の気持ちをドラマティックに表現されています。キャンディーズ3人の歌唱力の高さを再認識させた1曲とも言われました。
1978年(昭和53年)、石野眞子のデビュー曲「狼なんか怖くない」を提供。拓郎独特のアップダウンが効いた曲調と石野眞子が持っている明るいキャラクターが功を奏しヒットしました。point 278 | 1

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写真:ironna.point 60 | jp

数え上げるとキリがないほどのヒット曲を生み出してきた吉田拓郎。一流のメロディーメーカーでもあり、一流のシンガーでもあります。全曲を紹介するのは無理ですが、音楽を愛する方々には是非聴いていただきたい曲が多々あります。どれもこれも説明する必要などない名曲ばかりの一部のタイトルだけお伝えしたいと思います。point 212 | 1

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写真:ameblo.point 60 | jp

「人間なんて」 「今日までそして明日から」 「落陽」 「夏休み」 「たどり着いたらいつも雨降り」 「雪」 「どうしてこんなに悲しいんだろ」 「祭りのあと」 「マークⅡ」 「シンシア」 「いつか街で会ったなら(中村雅俊)」 「外は白い雪の夜」 「ドンファン(神田広美)」 「よろしく哀愁(郷ひろみ)」 「アジアの片隅で」・・・ あー やっぱりキリがありません。彼が日本の音楽界を変えた、と言っても過言ではないでしょう。別の表現をしますと、彼が現れなかったら、今 存在しなかったであろうアーティストも数多く活躍しています。シンガーソングライターを身近な存在にしたことも彼の功績でしょう。吉田拓郎を語らずにして今の音楽界は語れません。彼と同じ時代に生まれてきたことに感謝です。point 397 | 1

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