本来、この落馬事故は数ヵ月で治療できるものではなく、数年かけてゆっくりと治療を行っていかなくてはならないレベルの怪我でした。しかし、上記のように当時の武豊騎手の日本競馬の影響力はすさまじく、抱えている有力なサラブレッドも非常に多かったという事情がありました。
関係各所やファンなどの迷惑を考慮して、武豊騎手は早期の復帰を目指し、実際に落馬事故をしてから約半年程度での治療で復帰が叶いました。しかし、これが間違いでした。
早期に復帰した武豊騎手は、明らかに落馬事故の後遺症を引きずっていました。それまでは華麗な騎乗で勝ち星を量産していたにも関わらず、落馬事故以前までの柔らかい騎乗ができなくなっていたのです。これは、後年で武豊騎手本人が語っています。
武豊騎手曰く、早期復帰をしたいあまりに怪我を完治させずにレースに臨んでしまった、と反省を口にしています。実際に、この時期の同騎手は落馬事故の影響で鎖骨付近にまだ骨を付けるための板が入っている状態で、正常時の半分以下の稼働でしか肩を動かすことができない状況にありました。治療に専念するために、肩のリハビリの専門家や、血中に酸素を取り入れて傷の回復を早める特殊な方法も取り入れられましたが、それでも回復は非常に遅かったわけです。これに関しては、武豊騎手本人も非常に違和感を感じていたと言っています。同騎手の落馬事故による怪我はこれが初めてというわけではありません。その都度、状況に応じた治療を行ってきており、周りが驚くほどのスピード復帰を果たしてきました。ところが、今回の怪我は傷の回復が早い同騎手が何をやっても回復が望めない状況だったのです。そういうこともあって、本人にも焦りと苛立ちが出てきてしまいました。痛みがずっと付きまとっていたと本人が言っていたように、ここから武豊騎手の落馬事故のダメージが完治するのに、約2年もの歳月が必要になりました。
復帰した後は、怪我を抱えながらの戦いになり非常に厳しい現状が続きました。落馬事故のダメージを背負ったまま騎乗してしまった結果、2010年以降は騎手の栄誉であるリーディングジョッキーからも陥落してしまいます。さらにそこから二年は優秀な騎手の基準として考えられている年間100勝という目標にも到達することが出来ず、武豊は終わった、という声が競馬関係者のみならずファンの間からでも聞こえるようになってしまいます。そして、2年後に怪我が完治したときには既に武豊の騎手としての地位は地に堕ちてしまいました。
しかし、武豊騎手の逆襲はここから始まります。怪我が完治した2012年の年末、1頭の競走馬に出会います。この馬との出会いによって、武豊騎手は再び騎手としての頂点に上り詰めます。契機となったのは同騎手が落馬事故にあったあのレースです。このレースにトラウマのあった同騎手は、馬の力を信じで騎乗をするというかつての自分のスタイルを貫くことができていない状況でした。
しかし、馬の力を信用して思い切ったレースをしてみようと考え、そしてそれは大成功を収めます。同レースを勝利し、続く重賞レースも勝利、その後に日本競馬の最高峰のレースである日本ダービーをも制しました。後年、武豊騎手はその馬に騎乗して勝ったあのレースが自身のトラウマを打ち砕いてくれたと証言しています。こうして、再び日本競馬の顔として武豊は戻ってきたのです。