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世界が報じた即身仏に関する事実5選


即身仏とは?


写真:ameblo.jp

即身成仏(そくしんじょうぶつ)は、仏教で人間がこの肉身のままで究極の悟りを開き、仏になることである。即身成仏の思想は、主に真言密教の教義であり、真言宗において説かれる。空海の『即身成仏義』により確立される。また、天台宗・日蓮宗においても『法華経』に基づき説かれる。身仏(修行者が瞑想を続けて絶命し、そのままミイラになること)と混同されがちであるが、即身仏と即身成仏は全く別物である。違いは「成仏」が生きている状態で悟ること。行者が自分のために即身仏となるというのではなく、それまで衆生救済のために色々と活動してきたお坊さんが、最後に死んだ後も衆生救済に尽くすことを願って即身仏になるということ。point 359 | 1

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即身仏となる理由


写真:karapaia.com

即身仏となった最初の人物は諸説あるが空海と言われている。空海は1,000年以上前に生きた日本の仏僧であり、真言宗の開祖でもある。空海とその弟子は自己を滅却し、禁欲的な生活を行うことで、法力を高め、悟りを開くことができると考えた。真言宗の僧たちは、冷たい滝に打たれながら何時間も座禅を組み、体の欲求を捨て、瞑想を続けたという。中国密教の影響を受けた空海は、その禁欲生活を極限にまで高めようとした。その狙いは即身仏となり、物理世界の制約から解き放たれることである。これを実現するために、彼は生きていうちから、自身の体がミイラ化するよう準備を進めたという。point 348 | 1

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最初の1,000日間は過酷


写真:matome.naver.jp

即身仏となるための道筋は長く過酷だ。そこに至るには1,000日でなる3つの段階を経なければならない。即身仏になるための第一段階では、完全に食生活を変えなければならない。五穀断ちとして、木の実、種、果物などカロリーの低いものだけを口にする。これと同時に、山ごもりして修行にも励まなければならない。この1,000日で、僧の体からは急激に脂肪が落ちていく。ミイラ化には湿気が大敵で、乾燥していればいるほど都合がいい。脂肪は水分を多く含むので、死後に腐敗の原因となってしまう。また脂肪を多く含む遺体は、熱を逃がしにくい。すると細菌が繁殖しやすくなり、やはり腐敗の原因となる。僧がまず体脂肪を落とすのは、死後に遺体が腐敗することを防ぐ最初のステップなのだ。point 404 | 1

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体内の物を絞り出す


写真:karapaia.com

これまでの過酷な減量と長時間の瞑想によって、体脂肪と筋肉はほとんど残されていない。しかし、僧はそれに満足せず、己を極限まで絞り尽くさなければならない。そのために彼らは漆を飲むこともあった。漆は食器などを美しく見せる天然の塗料であるが、非常に毒性が高い。嘔吐、発汗、利尿といった作用があり、入定前にこれを飲めば、体の水分をさらに絞り出し、ミイラ化へ向けた理想のコンディションが作られる。さらに漆の成分によって、遺体を傷つけるウジ虫や昆虫などを防ぐ効果もある。point 302 | 1

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ほとんどが失敗


写真:karapaia.com

空海の入定以降、数多くの仏僧が即身仏を志したと言われている。しかし成功したのは知られているだけでも20数件程度であり、成功率が非常に低かったことがうかがい知れる。即身仏になるには、長年ほとんど何も食べず、体を動かすこともなく、長時間の座禅を行わければならない。それほどまで意志の強い人間など滅多にいないだろう。恐らくは多くの僧が途中で諦めたと思われる。さらに仮に最後まで意志を貫き通せたとしても、遺体がミイラ化しない可能性も非常に高い。日本の湿度の高い気候はミイラを作るには不向きなのである。これほどまでに過酷な行を経てもなお、石室の遺体が腐敗することはある。その場合、遺体が即身仏として回収されることはなく、そのまま埋葬されてしまう。もちろん、その意志の強さが広く尊敬されることは間違いない。point 419 | 1

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代表的な即身仏


写真:douyounazonazo.blog91.fc2.com

数多くの僧が挑戦したにもかかわらず、現存する即身仏は全国で17体ほどだ。それは日本の寺に祀られ、今日でも大切に扱われている。最も有名なのは、湯殿山大日坊の真如海上人だろう。真如海上人は20代のときに即身仏になろうと決意したそうで、以来食事の制限を始めたという。しかし、その願いが実現したのは1784年のことで、すでに96歳になっていた。当時、本州では江戸四大飢饉に数えられる天明の大飢饉が猛威を振るっており、無数の人々が飢えや病気で亡くなっていた。この状況を憂い、仏の慈悲が必要だと感じた真如海上人は、寺付近の丘に穴を掘り、入定を果たした。3年後、石室が開かれると、見事に即身仏となった上人の姿がそこにあった。これが功を奏したのかどうかは定かではないが、飢饉は1788年に終わった。point 430 | 1

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