川崎フロンターレに所属する森本貴幸はかつて怪物と称されたサッカー選手でした。中学生でプロとなり、イタリアでもプレーした彼はどのような評価を得ていたのでしょうか。それぞれの時代における活躍を経歴とともにたどっていきます。
中学生でプロに!森本はこんなに凄かった!!
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2004年、森本は東京ヴェルディのジュニアユースに所属していました。中学生とは思えないがっしりとした体格や力強さ、落ち着き払った雰囲気は当時のブラジル代表FWとプレースタイルや風貌が似ていることもあり「和製ロナウド」と言われるほどでした。
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まさに規格外だった森本はトップチームの監督に認められると、中学校卒業を前にしてトップチームに異例の昇格を果たします。すぐに公式戦に出場すると、平然と大人と互角に渡り合ったのです。数試合は無得点でしたが、5月の第8節ジェフ市原戦に途中出場すると決勝点を決めてみせます。これが当時の最年少ゴール記録(15歳11ヶ月28日)となり、その年の最優秀新人賞に選ばれたのでした。
2005年にはカップ戦での最年少ゴール記録も樹立しましたが、チームはJ2に降格してしまいます。しかし、森本自身は活躍が評価され、翌2006年7月にイタリア・セリエAのカターニャへと移籍したのです。
イタリアからワールドカップ日本代表へ
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まだ若いということもあってイタリアではユースからのスタートとなりました。それでも試合に出ればゴールを量産し、それが認められる形で12月にはトップチームに昇格します。そして初出場で初ゴールを決めるという大きなインパクトを残します。
2007年には左膝十字靱帯靱帯断裂を経験するなどもあり輝かしい成績は残せませんでした。しかし、津波を意味する「マレモート」という愛称で親しまれていたことからも森本の人となりがうかがえます。
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5シーズン在籍後にノヴァーラへ移籍、1年でカターニャに戻り、さらに翌年にはUAEのアル・ナスルに移り日本に復帰しています。その間、2008年には飛び級で北京オリンピックに出場し、2010年にはワールドカップ代表にも選ばれました。
残念ながらワールドカップでは出場機会はありませんでしたが、凱旋会見では開催国の南アフリカの歌を披露するなどムードメーカーの一面も垣間見せました。
日本の常識を変えた育成からトップへ
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彼の出現によって育成年代で海外に渡り、トップを目指すことが可能であると証明されました。結果的にイタリアや日本代表では好成績を残せませんでしたが、新たな日本サッカーのモデルケースを体現した功績は大きいと言えるでしょう。