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【死ぬ程洒落にならない怖い話】リゾートバイト


あらすじ


写真:www.rizoba.com

『リゾートバイト』 はインターネットで古くから人気がある怖い話ではある。

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大学3年の夏に3人は海のあるリゾート地で友人同士でもできるバイトをはじめる。
見事に海の近くの旅館に採用され、友人同士で楽しくリゾートバイトをしていくのだが、彼らの中の一人が封鎖されて入ってはいけないといわれている部屋に女将さんが料理を持ってく姿を何度も目撃していた。
それを全員に話したところ学生3名は好奇心から、こっそりとその部屋へ向かうのだがそこで見てはいけないものを目撃してしまうという物語。

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前編


写真:ameblo.jp

これは夏休みも間近に迫った大学3年生の頃の話。

大学の友人の樹と覚、そして修(俺)の3人で、海に旅行しようと計画を立てたんだ。

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計画段階で、樹が「どうせなら海でバイトしないか」と言い出し、俺も夏休みの予定は特になかったから二つ返事でOKした。

まずは肝心の働き場所を見つけるべく、手分けして色々探して回ることにした。

主にネットで探していたのだが、結構募集しているもので、「友達同士歓迎」という文言も多かった。俺たちはそこから、ナンパの名所と言われる海の近くの旅館を選んだ。

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俺は早速電話でバイトの申し込みをした。電話口の女性の話では人手不足らしく、それはもうトントン拍子に話は進み、あっけなくその旅館で働くことが決まってしまった。

こうして旅館へと旅立つ日がやってきた。初めてのリゾートバイトな訳で、緊張と期待で結構ワクワクしていた。

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電車を乗り継いで3時間。その旅館は2階建ての広めの一軒家。一言で言うなら、田舎の婆ちゃん家。旅館とは書いてあるけど、民宿という呼び名がぴったりかもしれない。

入り口で来訪を告げると、同じ歳くらいの女の子が笑顔で出迎えてくれた。ここでグッとテンションが上がる俺達。

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旅館の中は、客室が4部屋、食事する広間が1部屋、従業員住み込み用の部屋が2部屋で、計7つの部屋があると説明され、俺たちは最初に広間へ通された。

暫く待っていると、さっきの若い女の子が麦茶を持って来てくれた。名前は美咲ちゃんと言い、この近くで生まれ育った女の子だ。

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そして美咲ちゃんと一緒に入って来たのが女将の真由子さん。恰幅が良くて、笑い声の大きな凄く良い人。それに美人。もう少し若かったら俺、惚れてた。

あと旦那さんもいて、俺達3人を含めた6人でこの民宿を切り盛りして行くことになった。

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ある程度、自己紹介が済んだ後、女将さんから案内があった。

「客室はそこの右の廊下を突き当たった左右にあるからね。そんであんたたちの寝泊りする部屋は、左の廊下の突き当たり。あとは荷物置いてから案内するから、ひとまずゆっくりしておいで」

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ふと樹が疑問に思ったことを聞いた。

「2階じゃないんですか? 客室って」

すると女将さんは笑顔で答えた。

「2階はもう、使ってないの」

部屋に着いて荷物を下ろし、部屋から見える景色と近くの海から流れてくる潮の匂いを嗅ぐと、本当に夏休みが到来したことを実感した。

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これからバイトで大変かもしれないけど、こんな場所でひと夏過ごせるのなら全然良いと思った。ひと夏の恋なんていうのも期待していたしね。

こうして俺たちのバイト生活が始まった。楽な仕事ではなかったけど、みんな良い人だから全然苦にならなかった。やはり職場は人間関係ですな。あっという間に1週間が過ぎた。

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「なあ、俺たち良いバイト先見つけたよな」

「ああ、金もいいし」

二人が話す中、俺も、

「そーだな。でももうすぐシーズンだろ? 忙しくなるな」

樹「そういえばシーズンになったら2階は開放すんのか?」

覚「しねーだろ。2階って女将さんたち住んでるんじゃないのか?」

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俺と樹は「え、そうなの?」と声を揃える。

覚「いやわかんねーけど。でも最近女将さん、よく2階に飯持ってってないか?」

そんな姿は見たことがなかった。覚は夕時、玄関前の掃き掃除を担当しているため、2階に上がる女将さんの姿をよく見かけるのだと言う。女将さんはお盆に飯を乗せて、2階へ続く階段に消えて行くらしい。

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ここで説明しておくと、2階へ続く階段は一度玄関を出た外にある。1階の室内から2階へ行く階段は、俺達の見たところでは確認できなかった。

その話を聞いた俺達は「ふうん」という感じで、別に何の違和感も感じなかった。

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それから何日か過ぎたある日、いつも通り廊下の掃除をしていた俺も遭遇することになった。見ちゃったんだ。客室からこっそり出て来る女将さんを。

女将さんは基本、部屋の掃除などはしないんだ。そういうことをするのは全部、美咲ちゃん。だから余計に気になったのかもしれないけど。

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見間違いかと思ったけど、やはり女将さんだった。その日一日、悶々したものを抱えていた俺は、結局黙っていられず二人にそのことを話した。

すると、樹が言った。

「それ、俺も見たことあるわ」

「おい、マジか。なんで言わなかったんだよ」

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俺が焦る。

「だってなんか用あるんだと思ってたし、それに疑ってギクシャクすんの嫌じゃん」

「確かに」

俺達はその時、残り1ヶ月近くバイト期間があった訳で…。他所様のことを変に詮索しなければ楽しく過ごせるんじゃないかと思った。

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だけど俺ら男だし。3人組みだし。少し冒険心が働いて「なにか不審なものを見たら報告する」ということで、その晩は大人しく寝た。

そしたら次の日の晩、覚がひとつ同じ部屋の中にいる俺達をわざとらしく招集。いちいち芝居がかったやつ。

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覚「おれさ、女将さんがよく2階に上がるっていったじゃん? あれ、最後まで見届けたんだよ。いつも女将さんが階段に入っていくところまでしか見てなかったんだけど、昨日はそのあと出てくるまで待ってたんだよ。そしたらさ、5分くらいで下りてきたんだ」

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樹「そんで?」

覚「女将さんていつも俺らと飯食ってるよな? それなのに盆に飯のっけて2階に上がるってことは、誰かが上に住んでるってことだろ?」

俺「まあ、そうなるよな…」

覚「でも俺らは、そんな人見たこともないし、話すら聞いてない」

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樹「確かに怪しいけど、病人かなんかっていう線もあるよな」

覚「そそ。俺もそれは思った。でも5分で飯を完食するって、けっこう元気だよな?」

樹「そこで決めるのはどうかと思うけどな」

覚「でも怪しくないか? お前ら怪しいことは報告しろっていったじゃん? だから俺は報告した」

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語尾が少し得意気になっていたので俺と樹はイラッとしたが、そこは置いておいて、確かに少し不気味だなと思った。

「2階にはなにがあるんだろう?」

次の日、いつもの仕事を早めに済ませ、俺と樹は覚のいる玄関先へ集合した。そして女将さんが出て来るのを待った。

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暫くすると女将さんは盆に飯を乗せて出て来た。玄関を出て壁伝いに進み、そのまま角を曲がり、2階に上がる階段の扉を開くと、奥の方へ消えて行った。

取り敢えずそこに消えた女将さんは、覚の言った通り5分ほど経つと戻って来た。お盆の上の飯は空だった。そして俺たちに気付かないまま、1階に戻って行った。

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覚「な? 早いだろ?」

俺「ああ、確かに早いな」

樹「なにがあるんだ? 上には」

覚「知らない。見に行く?」

樹「ぶっちゃけ俺、今、びびってるけど?」

覚「俺もですけど?」

俺「とりあえず行ってみるべ」

そう言って3人で2階に続く階段の扉の前に行ったんだ。

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「鍵とか閉まってないの?」

という樹の心配をよそに俺がドアノブを回すと、すんなり開いた。

「カチャ」

扉が数センチ開き、左にいた覚の位置からなら辛うじて中が見えるようになった時、

「うっ」

覚が顔を歪めて手で鼻をつまんだ。

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樹「どした?」

覚「なんか臭くない?」

俺と樹には何も分からなかったのだが、覚は激しく臭いに反応していた。

覚「いやマジで。臭わないの? 扉もっと開ければわかるよ」

俺は意を決して扉を一気に開けた。ひんやりとした空気が中から溢れ、埃が舞った。

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俺「この埃の臭い?」

覚「あれ? 臭わなくなった。でも本当に臭ったんだよ。なんていうか…生ゴミの臭いっぽくてさ」

樹「気のせいじゃないの」

そんな二人を横目に、俺はあることに気が付いた。廊下が凄く狭い。人が一人通れるくらいだった。

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そして電気らしきものが見当たらない。外の光で辛うじて階段の突き当たりが見える。突き当たりには、もう一つ扉があった。

俺「これ、上るとなるとひとりだな」

樹「いやいやいや、上らないでしょ」

覚「上らないの?」

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樹「上りたいならお前行けよ。俺は行かない」

覚「おれも、無理だな」

樹が覚を肩パンチ。

俺「結局行かねーのかよ。んじゃー、俺いってみる」

二人「本気?」

俺「俺こういうの、気になったら寝れないタイプ。寝れなくて真夜中一人で来ちゃうタイプ。それ完全に死亡フラグだろ? だから、今、行っとく」

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訳の解らない理由だったが、俺の好奇心を考慮すれば、今、樹と覚がいるこのタイミングで確認する方が良いと思ったんだ。でも、その好奇心に引けを取らずして恐怖心はあった訳で…。

取り敢えず俺一人行くことになったのだが、何か非常事態が起きた場合は絶対に(俺を置いて)逃げたりせず、真っ先に教えてくれという話になった。

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ただし、何事もない時は、急に大声を出したりするなと。もしそうした時は、命の保障はできないとも伝えた(俺のね)。

一段一段と階段を登る俺。

階段の中には外からの光が差し込んでいるが、とても薄暗い。慎重に一段ずつ階段を登り始めたが、途中から、

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「パキッ…パキ」

と音がするようになった。

何事かと思い、怖くなって後ろを振り返り、二人を確認する。二人は音に気付いていないのか、じっとこちらを見て親指を立てる。「異常なし」の意味を込めて。

俺は微かに頷き、階上に向き直る。古い家によくある、床の鳴る現象だと思い込むようにした。

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下の入り口からの光があまり届かないところまで登ると、好奇心と恐怖心の均衡が怪しくなってきた。そのまま引き返したい気分になった。

暗闇で目を凝らすと、突き当たりの扉の前に何かが立っている…かもしれないとか、そういう「かもしれない思考」が本領を発揮し始めた。

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「パキパキパキッ…」

この音も段々激しくなり、どうも自分が何かを踏んでいる感触があった。虫かと思った。背筋がゾクゾクした。でも何かが動いている様子はなく、暗くて確認もできなかった。

何度振り返ったか判らないが、途中から下の二人の姿が逆光のせいか薄暗い影に見えるようになった。ただ親指はしっかり立てていてくれたみたいだけど。

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そしてとうとう突き当たりに差し掛かった時、強烈な異臭が俺の鼻を突いた。俺は覚と全く同じ反応をした。

「うっ」

異様に臭い。生ゴミと下水が入り混じったような臭いだった。

『なんだ? なんだなんだなんだ?』

そう思って辺りを見回す。

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その時、俺の目に飛び込んできたのは、突き当たりの扉の前に大量に積み重ねられた飯だった。まさにそれが異臭の元となっていて、何故気付かなかったのかというほど蝿が群がっていた。そして俺は、もう一つあることを発見してしまう。

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突き当たりの扉には、ベニヤ板が無数の釘で打ち付けられていて、その上から大量のお札が貼られていたのだ。更に、打ち付けた釘に細長いロープが巻きつけられていて、蜘蛛の巣のようになっていた。

正直、お札を見たのは初めてだった。だからあれがお札だったと言い切れる自信はない。でも大量のステッカーという訳でもないと思う。明らかに、何か閉じ込めていますという雰囲気が全開。

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俺はそこで初めて、自分のしていることが間違いだと思った。

『ここにいちゃいけない』

そう思って踵を返して行こうとした時、突然背後から、

「ガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリ」

という音が聞こえた。

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扉の向こう側で、何か引っ掻いているような音だった。

そしてその後に「ヒュー…ヒュッヒュー」という不規則な呼吸音が聞こえてきた。

俺は身動き一つできなかった。

あの時の俺は、ホラー映画の脇役の演技を遥かに凌駕していたのではないかと思う。そのまま後ろを見ずに行けば良いのだけど、あんなの実際できないぞ。そのまま行く勇気もなければ、振り返る勇気もない。そこに立ち竦むことしかできなかった。

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眼球だけが左右に動き、冷や汗で背中はビッショリだった。

その間も、

「ガリガリガリガリガリガリ」

「ヒュー…ヒュッヒュー」

という神経を逆撫でする音は続き、俺は緊張で動かない足をどうにか進めようと必死になった。

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すると背後から聞こえていた音が一瞬止まった。本当に一瞬だった。そして「バンッ!」という叩き付ける音。そして「ガリガリガリガリガリガリ」という音。

信じられなかったのだけど、それは俺の頭の真上、天井裏から聞こえてきたんだ。さっきまで扉の向こう側にいたはずなのに、一瞬で頭上に移動したんだ。

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俺はもう限界だった。

そんな中、本当にこれも一瞬なんだけど、視界の片隅に動くものが見えた。それは階下の樹と覚だった。何か叫びながら手招きしている。

「おい!早く降りてこい!」

この瞬間に体が自由になり、我に返った俺は一目散に階段を駆け下りた。

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後で二人に聞いたのだが、俺はこの時、目を見開いたまま、一段抜かしの転がるような勢いで下りて来たらしい。

駆け下りた俺は、とにかくその場所から離れたくて、そのまま樹と覚の横を通り過ぎ部屋まで走って行ったらしい。この辺はあまり記憶がない。

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部屋に戻って暫くすると、樹と覚が後を追って部屋に入って来た。

樹「おい、大丈夫か」

覚「なにがあったんだ? あそこになにかあったのか?」

答えられなかった。というか、耳にあの音が残っていて、思い出すのも怖かった。

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すると樹が慎重な面持ちで、こう聞いてきた。

「お前、上で何食ってたんだ?」

質問の意味が解らず聞き返した。

すると樹はとんでもないことを言い出した。

「お前さ、上に着いてすぐしゃがみこんだろ? 俺と覚で何してんだろって目を凝らしてたんだけど、なにかを必死に食ってたぞ。というか、口に詰め込んでた」

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「うん…しかもさ、それ…」

覚は俺の胸元を見つめる。

何かと思って自分の胸元を見ると、大量の腐った残飯がくっついていた。そこから食物の腐った臭いが漂い、俺は一目散にトイレに駆け込み、胃袋の中身を全部吐き出した。

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何が起きているのか解らなかった。俺は上に行ってからの記憶はあるし、あの恐怖の体験も鮮明に覚えている。ただの一度もしゃがみ込んでいないし、増してやあの腐った残飯を口に入れる筈がない。

それなのに、確かに俺の服にはそれがこびり付いていて、よく見れば手にも掴んだ形跡があった。

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俺はゲエゲエ吐きながら混乱の頂点にいた。

俺を心配してトイレまで見に来た樹と覚は、

「何があったのか話してくれないか? ちょっとお前尋常じゃない」

と言った。

俺は恐怖に負けそうになりながらも、一人で抱え込むよりはいくらかましだと思い、さっき自分が階段の突き当たりで体験したことを一つ一つ話した。

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樹と覚は、何度も頷きながら真剣に話を聞いていた。

二人が見た俺の姿と、俺自身が体験した話が完全に食い違っていても、最後までちゃんと聞いてくれたんだ。それだけで安心感に包まれ泣きそうになった。

話して少しホッとしていると、足がチクチクすることに気付いた。『なんだ?』と思い見てみると、細かい切り傷が足の裏や膝に大量にあった。

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不思議に思って目を凝らすと、何やら細かいプラスチックの破片ようなものが所々に付着していることに気が付いた。赤いものと、少し黒みのかかった白いものがあった。

俺がマジマジとそれを見ていると、

「何それ?」

と覚はその破片を手に取って眺めた。

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そして、

「ひっ」

と言ってそれを床に投げ出した。

その動作につられて樹と俺も体がビクッとなる。

樹「なんなんだよ?」

覚「それ、よく見てみろよ」

樹「なんだよ? 言えよ、恐いから!」

覚「つ、爪じゃないか?」

その瞬間、3人とも完全に固まった。俺はその時、物凄い恐怖心を抱きながらも、何故か冷静にさっきまでの音を思い返していた。

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『ああ、あれ爪で引っ掻いていた音なんだ…』

どうしてそう思ったか解らない。だけど、思い返してみれば繋がらないこともないんだ。

階段を登る時に鳴っていた「パキパキ」という音も、何かを踏みつけていた感触も、床に大量に散らばった爪のせいだったのではないか…と。

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そしてその爪は、壁の向こうから必死に引っ掻いている何かのものなんじゃないか…と。

きっと膝をついて残飯を食った時、恐怖のせいで階段を無茶に駆け下りた時、床に散らばる爪の破片のせいで怪我をしたのだろう。

でも、そんなことはもうどうでも良い。確かなことは、ここにはもう居られないということだった。

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俺は樹と覚に言った。

俺「このまま働けるはずがない」

樹「わかってる」

覚「俺もそう思ってた」

俺「明日、女将さんに言おう」

樹「言っていくのか?」

俺「仕方ないよ。世話になったのは事実だし、謝らなきゃいけないことだ」

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覚「でも、今回のことで女将さん怪しさナンバーワンだよ? もしあそこに行ったって言ったらどんな顔するのか、俺見たくない」

俺「バカ。言うはずないだろ。普通に辞めるんだよ」

樹「うん、そっちのほうがいいな」

そんなこんなで、俺たちはその晩の内に荷物をまとめた。

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そしてあまりの恐怖のため、布団を2枚くっつけてそこに3人で無理やり寝た。メザシのように寄り添って寝た。

誰一人、寝息を立てるやつはいなかったけど。

中編


写真:and-plus.net

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次の日、殆ど誰も口を利かないまま朝を迎えた。沈黙の中、急に携帯のアラームが鳴った。いつも俺達が起きる時間だった。

覚の体がビクッとなり、相当怯えているのが窺えた。覚は根が凄く優しいやつだから、前の晩、俺に言ったんだ。

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「ごめんな。俺なんかより修の方が全然怖い思いしたよな。それなのに俺がこんなんでごめん。助けに行かなくて本当ごめん」

その時は本当に嬉しくて目頭が熱くなったけど、でもなぜか俺は覚のその言葉に引っかかるものを感じた。

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覚は俺達が立てる音の一つ一つに反応したり、俺の足の傷を食い入るようにじっと見つめたり、明らかに様子がおかしかった。

樹も普段と違う覚を見て、多少ビビリながらも心配したのだろう。

「おい、大丈夫か? 寝てないから頭おかしくなってんのか?」

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と軽口を叩きながら覚の肩を掴んだ。すると覚は急に、

「うるさいっ!」

と叫び、樹の腕を凄い勢いで振り払った。

樹と俺は一瞬沈黙した。

俺「おい、どうしたんだよ?」

樹は急の出来事に驚き、声を出せずにいた。

「大丈夫かだって? 大丈夫なわけねーだろ? 俺も修も死ぬような思いしてんだよ。何にもわかってねーくせに心配したふりすんな!」

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樹を睨み付けながらそう叫んだ。

何を言っているんだろうと思った。覚の死ぬ思いって何だ? 俺の話を聞いて恐怖していた訳じゃないのか?

樹と覚は仲間内でも特に仲が良かったのだが、その関係も樹が覚をいじる感じで、どんな悪ふざけにも覚は怒らず調子を合わせていた。

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だから覚が樹に声を荒げる場面など見たことがなかったし、もちろん当の本人もそんな経験はなかったと思う。樹はこれも見たことないくらいに動揺していた。

俺は疑問に思ったことを覚に問いかけた。

「死ぬ思いってなんだ? お前ずっと下にいたろ?」

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「いたよ。ずっと下から見てた」

そして少し黙ってから下を向いて言った。

「今も見てる」

今も? 何を? 俺は訳が解らない。全然解らないのだが、よくある話で覚の気が狂ったのだと思った。何かに取り憑かれたんだと。

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そんな思いを他所に、覚は震える口調で、でもしっかりと喋り始めた。

「あの時、俺は下にいたけど、でもずっと見てたんだ」

「階段を昇って行く俺だよな?」

「違うんだ…。いや、初めはそうだったんだけど。修が階段を昇り切ったくらいから、見え出したんだ」

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「…何が」

本当はこの時、俺の心の中は聞きたくないという気持ちが大半を占めていた。でも覚は、もうこれ以上一人で抱えきれないという表情だった。

昨晩、俺の話を最後までちゃんと聞いてくれた樹と覚。あれで自分がどれだけ救われたかを考えると、俺には聞かなくてはならない義務があるように思えた。

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「何が、見えたんだ?」

覚はまた少し黙り込み、覚悟したように言った。

「影…だと思う」

「影?」

「うん。初めは修の影だと思っていたんだ。お前の周りを…動き回る影が…3つ…いや4つくらい見えた」

全身にぶわっと鳥肌が立つのを感じた。どうかこれが覚の冗談であってくれと思った。しかし、今目の前にいる覚はとてもじゃないが冗談を言っているように見えなかった。

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「あそこには、俺しかいなかった」

「わかってる」

「そもそも、あの場所に人が4、5人も入って動き回れるはずない」

あの階段は人が一人通れるほどの幅しかなかった。

「わかってる。あれは人じゃない。それに、どう考えても人じゃ無理だ」

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覚はぽつりと言った。

「どういうこと?」

「壁に張りついてた。蜘蛛みたいに。壁とか天井に張りついてたんだ。それで、もぞもぞ動いてて、それで、それで…」

自分の見た光景を思い出したのか、覚の呼吸が荒くなる。

「落ち着け!深呼吸しろ。な? 大丈夫だ、みんないる」

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覚は暫く興奮状態だったが、落ち着きを取り戻してまた話し始めた。

「…あれは人じゃない。いや、元から人じゃないんだけど、形も人じゃない。いや、人の形はしてるんだけど、違うんだ」

覚が何を言いたいのか何となく解った俺は、

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「人間の形をしたなにかが、壁に張りついてたってことか?」

と聞いた。

覚は黙って頷いた。

心臓の鼓動が激しくなった。咄嗟に覚が見たのは影じゃないと思った。影が壁や天井を動き回るのは不自然だ。仮にそれが影だったとしても、確実にそこに何かがいたから影ができたんだ。それくらい馬鹿の俺でも解る。

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ということは、俺は自分の周りで這い回る何かに気付かず、しかも腐った残飯をモリモリと食べていたということなのか?

あの音は…? あのガリガリと壁を引っ掻く音は、壁やドアの向こう側からではなく、俺のいる側のすぐ傍で鳴っていたということか? あの呼吸音も?

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恐怖のあまり頭がクラクラした。

そんな俺の様子を知ってか知らずか、覚は傍に立っていた樹に向き直り、

「ごめん、さっきは取り乱して。悪かった」

と謝った。

「いや、大丈夫…こっちこそごめんな」

樹もすかさず謝った。

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その後、何となく気まずい雰囲気だったが、俺は平静を保つのに必死だった。無意味に深呼吸を繰り返した。そんな中、樹が口を開いた。

「お前さ、さっき今も見てるっていったけど」

覚は樹が言い終わらない内に答えた。

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「ああ、ごめん。あれはちょっと、錯乱してたんだわ。ははっ、ごめん、今は大丈夫」

嘘だ。覚の笑顔は、完全に作り笑いだった。明らかに無理した笑顔で、目はどこか違うところを見ているようだった。

樹と俺はそれ以上聞かなかった。臆病者だと思われても仕方ない。だけど怖くて聞けなかったんだ。

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少しの沈黙の後、広間の方から美咲ちゃんが朝飯の時間だと俺達を呼んだ。3人で話している間に結構な時間が過ぎていたらしい。

正直、食欲などある筈もなく。だが不審に思われるのは嫌だったし、行くしかないと思った。

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俺はのっそりと立ち上がり、二人に言った。

俺「なるべく早いほうがいいよな。朝飯食い終わったら言おう」

樹「そうだな」

覚「俺、飯いいや。樹さ、ノートPCもってきてたよな? ちょっと、貸してくれないか?」

樹「いいけど、朝飯食えよ」

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覚「ちょっと調べたいことがあるんだ。あんまり時間もないし、悪いけど二人でいってきて」

俺「了解。美咲ちゃんに頼んでおにぎり作ってもらってきてやるよ」

覚「うん、ありがと」

樹「パソコンは俺のカバンの中に入ってる。ネットも繋がるから」

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そう言って俺達はそのまま広間に向かった。

広間に着くと、女将さんが俺らを見て、そしてゆっくりと俺の足元をみて、満面の笑顔で聞いてきたんだ。

「おはよう、よく眠れた?」と。

そんな言葉、初日以来だったし、昨日のこともあったから凄く不気味だった。ビビった俺は直立不動になってしまったが、樹が、

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「はい。すみません遅れて」

と返事をしながら、俺のケツをパンと叩いた。体がスっと動いた。いつも人一倍ビビっていた樹に助け舟を出してもらうとは思わなかった。

そして覚が体調不良のためまだ部屋で寝ていることを伝え、美咲ちゃんにおにぎりを作ってもらえるよう頼んだ。

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「あ、いいですよ。それより覚くん、今日は寝てたほうがいいんじゃ」

美咲ちゃんは心配そうにそう言った。樹と俺は、得に何も言わず席に付いた。「もう辞めるから大丈夫」とは言えないからな。

朝飯を食っている間、女将さんはずっとニコニコしながら俺を見ていた。箸が完全に止まっていた。「俺、ときどき飯」みたいな。

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美咲ちゃんも旦那さんもその異様な様子に気付いたのか、チラチラ俺と女将さんを見ていた。樹は言うまでもなく、凝固。

凄まじく気分の悪くなった俺達は朝飯を早々に切り上げ、部屋に覚を呼びに行った。

部屋に戻る途中、覚の話し声が聞こえてきた。どうやらどこかに電話をしているようだった。俺達は電話中に声をかける訳にもいかなかったので、部屋に入り座って電話が終わるのを待った。

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「はい、どうしても今日がいいんです。…はい、ありがとうございます!はい、はい、必ず伺いますのでよろしくお願いします」

そう言って電話を切った。

どうやら覚は、ここから帰ってすぐどこかへ行く予定を立てたらしい。俺も樹も別に詮索するつもりはなかった。何も聞かず、すぐに覚を連れて広間に向かった。

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広間に戻ると、美咲ちゃんが朝飯の片付けをしていた。女将さんは居なかった。

俺はふと、盆に飯を乗せて2階への階段に消えて行ったあの女将さんの後姿を思い浮かべた。

きっとあの時に持って行った飯は、あの残飯の上に積み重ねてあったんだろう。そうして何日も何日も繰り返して、あの山ができたんだろうな。

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『一体あれは何のためなんだ?』

俺の頭に疑問が過った。

しかし、そんなこと考えるまでもないとすぐに思い直した。俺は今日で辞めるんだ。ここともおさらばするんだ。すぐに忘れられる。忘れなきゃいけない。心の中で自分に言い聞かせた。

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樹が女将さんの居場所を美咲ちゃんに尋ねた。

「女将さんならきっと、お花に水やりですね。すぐ戻ってきますよ」

そう言って美咲ちゃんは、覚の方を見て、

「覚くん、すぐおにぎり作るからまっててね」

と笑顔で台所に引っ込んだ。

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ああ、美咲ちゃん…何もなければきっと俺は美咲ちゃんとひと夏のあばん(略)

俺達は女将さんが戻って来るのを待った。

暫くすると女将さんは戻って来て、仕事もせずに広間に座り込む俺達を見て「どうしたのあんたたち?」とキョトンとした顔をした。

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俺は覚悟を決めて切り出した。

「女将さん、お話があるんですけど、ちょっといいですか?」

「なんだい? 深刻な顔して」

女将さんも俺達の前に座った。

「勝手を承知で言います。俺達、今日でここを辞めさせてもらいたいんです」

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樹と覚もすぐ後に「お願いします」と言って頭を下げた。

女将さんは表情ひとつ変えずに暫く黙っていた。まるで予想していたかのような表情だった。

長い、長い沈黙の後、

「そうかい。わかった、ほんとにもうしょうがない子たちだよ」

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と言って笑った。

そして給料の話、引き上げる際の部屋の掃除などの話を一方的に喋り、用意が出来たら声をかけるようにと俺達に言った。

拍子抜けするくらいにすんなり話が通ったことに、俺達は安堵していた。だけど、心のどこかで何かおかしいと思う気持ちもあった筈だ。

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話が決まったからには俺達は即行動した。荷物は前の晩の内にまとめてある。あとは部屋の掃除をするだけで良かった。

バイトを始めてから、仕事が終われば近くの海で遊んだり、疲れている日には戻ってすぐに爆睡だったので、部屋にいる時間はあまりなかったように思う。だから男3人の部屋と言えど、元からそんなに汚れている訳でもなかった。

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そんなこんなで、一時間ほどの掃除をすれば部屋も大分綺麗になった。準備が出来たということで俺達は広間に戻り、女将さん達に挨拶をすることにした。

広間に戻ると女将さんと旦那さん、そして悲しそうな顔をした美咲ちゃんが座っていた。

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俺達は3人並んで正座し、

「短い間ですが、お世話になりました。勝手言ってすみません。ありがとうございました」

と言って頭を下げた。

すると女将さんが腰を上げて俺達に近寄り、

「こっちこそ、短い間だったけどありがとうね。これ、少ないけど…」

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そう言って茶封筒を3つ、そして小さな巾着袋を3つ手渡してきた。茶封筒は思ったよりズッシリしていて、巾着袋は凄く軽かった。

そして後ろから美咲ちゃんが、

「元気でね」

と言って少し泣きそうな顔をしながら言うんだ。そして「みんなの分も作ったから」と、3人分のおにぎりを渡してくれた。

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『おいおい止めてくれ。泣いちゃうよ俺!』そう思ってあんまり美咲ちゃんの顔を見られなかった。

前日死にそうな思いをしたのにと思うだろ? だけど、実際凄く世話になった人との別れの時には、そういうの無しになるものなんだわ。

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挨拶も済んで、俺達は帰ることになった。

来る時は近くのバス停までバスを使ったのだが、帰りはタクシーにした。旦那さんが車で駅まで送ってくれるという話も出たのだが、覚が断った。

タクシーが到着すると、女将さん達は車まで見送りに来てくれた。周りから見れば何となく感動的な別れに見えただろうが、実際、俺達は逃げ出す真っ最中だったんだよな。

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タクシーに乗り込む前に、俺は振り返った。辛うじて見えた2階への階段の扉が、目を凝らすとほんの少し開いているような気がして、思わず顔を背けた。

そして3人とも乗り込み、行き先を告げるとすぐ車が動き出した。

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旅館から少し離れると、急に覚が運転手に行き先を変更するよう言ったんだ。運転手に何かメモみたいなものを渡して、ここに行ってくれと。

運転手はメモを見て怪訝な顔をして聞いてきた。

「大丈夫? 結構かかるよ?」

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「大丈夫です」

覚はそう答えると、後部座席でキョトンとしている樹と俺に向かって

「行かなきゃいけないとこがある。お前らも一緒に」と言った。

俺と樹は顔を見合わせた。考えてることは一緒だったと思う。

『どこへ行くんだ』

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だが、朝の錯乱した様子を見た後だったので、正直気が引けて何も聞けなかった。

暫く走っていると運転手さんが聞いてきた。

「後ろ走ってる車、お客さんたちの知り合いじゃない?」

『え?』と思い振り返ると、軽トラックが一台後ろにぴったりくっついて走っていた。そして中から手を振っていたのは、旦那さんだった。

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俺達は何か忘れ物でもしたのかと思い、車を停めてもらえるよう頼んだ。道の端に車が止まると、旦那さんもそのまますぐ後ろに軽トラを停めた。そして出て来ると俺達のところに来て、

「そのまま帰ったら駄目だ」

と言った。覚は暗い表情で応じる。

「帰りませんよ。こんな状態で帰れるはずないですから」

「え、どういうこと?」

何が何やら解らなかったので素直に質問した。

すると旦那さんは俺の方を向き、真っ直ぐ目を見つめて言った。

「おめぇ、あそこ行ったな?」

心臓がドクンッと鳴った。

『なんで知ってんの』

この時は本気で怖かった。霊的なものではなく、何と言うか大変なことをしてしまったという思いが凄かった。俺は「はい」と答えるだけで精一杯だった。

すると旦那さんは溜め息をひとつ吐くと言った。

「このまま帰ったら完全に持ってかれちまう。なぁんであんなとこ行ったんだかな。まあ、元はと言えば俺がちゃんと言わんかったのが悪いんだけどよ」

おい、持ってかれるってなんだ。勘弁してくれよ。もう終わった筈だろ?

不安になって樹を見た。樹は驚くような目で俺を見ていた。更に不安になって覚を見た。すると覚は言うんだ。

「大丈夫。これから御祓いに行こう。そのためにもう向こうに話してあるから」

信じられなかった。憑かれていたってことか? 何だよ、俺死ぬのか? この流れは死ぬんだよな? なんであんなとこ行ったんだって? 行くなと思うならはじめから言ってくれ。

あまりの恐怖で、自分の責任を誰か他の人に転嫁しようとしていた。

呆然としている俺を横目に、旦那さんと覚は話を進めた。

「御祓いだって?」

「はい」

「おめぇ、見えてんのか」

覚は黙り込む。

樹「おい、見えてるって…」

覚「ごめん。今はまだ聞かないでくれ」

俺は思わず覚に掴みかかった。

「いい加減にしろよ。さっきから何なんだよ!」

旦那さんが割って入る。

「おいおい止めとけ。おめぇら、逆にコイツに感謝しなきゃならねぇぞ」

樹「でも、言えないってことないんじゃないすか?」

旦「おめぇらはまだ見えてないんだ。一番危ないのはコイツなんだよ」

俺と樹は揃って覚を見た。覚は、暗い表情のままだった。

「どうして覚なんですか? 実際にあそこに行ったのは俺です」

「わかってるさ。でもおめぇは見えてないんだろ?」

「さっきから見えてるとか見えてないとか、なんなんですか?」

「知らん」

「はぁ?」

トンチンカンなことを言う旦那さんに対して俺はイラっとした。

「真っ黒だってことだけだな、俺の知ってるのは。だがなぁ…」

そう言って旦那さんは覚を見る。

「御祓いに行ったところで、なんもなりゃせんと思うぞ」

覚は、疑いの目を旦那さんに向けて聞いた。

「どうしてですか?」

「前にもそういうことがあったからだな。でも、詳しくは言えん」

「行ってみなくちゃわからないですよね?」

「それは、そうだな」

「だったら」

「それで駄目だったら、どうするつもりなんだ?」

また黙り込む覚。

「見えてからは、とんでもなく早いぞ」

早いという言葉が何のことを言っているのか俺にはさっぱり解らなかった。

だが、旦那さんがそう言った後、覚は崩れ落ちるようにして泣き出したんだ。声にならない泣き声だった。俺と樹は、傍で立ち尽くすだけで何もできなかった。

俺達の異様な雰囲気を感じ取ったのか、タクシーの窓を開けて中から運転手が話しかけてきた。「お客さんたち大丈夫ですか?」

俺達3人は何も答えられない。覚に限っては道路に伏せて泣いている始末だ。すると旦那さんが運転手に向かってこう言った。

「あぁ、すまんね。呼び出しておいて申し訳ないんだが、こいつらはここで降ろしてもらえるか?」

運転手は「え? でも…」と言い俺達を交互に見た。

その場を無視して旦那さんは覚に話しかける。

「俺がなんでおめぇらを追いかけてきたかわかるか? 事の発端を知る人がいる。その人のとこに連れてってやる。もう話はしてある。すぐ来いとのことだ。時間がねぇ。俺を信じろ」

肩を震わせ泣いていた覚は、精一杯だったんだろうな、顔をしわくちゃにして声を詰まらせながら言った。

「おねが…っ…します…」

呼吸ができていなかった。男泣きでも何でもない、泣きじゃくる赤ん坊を見ているようだった。

昨日の今日だが、覚は一人で、何かもの凄い大きなものを抱え込んでいたんだと思った。あんなに泣いた覚を見たのは、後にも先にもこの時だけだ。

覚のその声を聞いた俺は、運転手に言った。

「すいません。ここで降ります。いくらですか?」

その後、俺達は旦那さんの軽トラに乗り込んだ。と言っても、俺と樹は後の荷台な訳で。乗り心地は史上最悪だった。

旦那さんは俺達が荷台に乗っているにも関わらず、有り得ないほどスピードを出した。樹から女々しい悲鳴を聞いたが、スルーした。

どれくらい走ったのか分からない。あまり長くなかったんじゃないかな。まあ正直、それどころじゃないほど尾てい骨が痛くて覚えていないだけなんだが。

着いた場所は、普通の一軒家だった。横に小さな鳥居が立っていて石段が奥の方に続いていた。

俺達の通されたのはその家の方で、旦那さんは呼び鈴を鳴らして待っている間、俺達に「聞かれたことにだけ答えろ」と言った。

少し待つと、家から一人の女の人が出てきた。年は20代くらいの普通の人なんだけど、額の真ん中に大きなホクロがあったのが凄く印象的だった。

その女の人に案内されて通されたのは家の一角にある座敷だった。そこには一人の坊さんと、おっさん、じいさんの三人が座っていた。

俺達が部屋に入るなり、おっさんが眉をひそめ「禍々しい」と呟いた。

「座れ」

旦那さんの掛け声で俺達は、坊さんたちが並んで座っている丁度向かい側に3人並んで座った。そして旦那さんが覚の隣に座った。

するとじいさんは口を開いた。

「旦那、この子ら3人で全部かね?」

「えぇ、そうなんですわ。この覚って奴は、もう見えてしまってるんですわ」

旦那さんがそう言った瞬間、おっさんとじいさんは顔を見合わせた。

すると坊さん-離塵さんという名前だと後で教えてもらった-が口を開いた。

「旦那さん、堂に行ったというのは彼ですか?」

「いえ。実際行ったのはこの修って奴で」

「ふむ」

「覚は下から覗いていただけらしいんです」

「そうですか」

そして少し黙ったあと離塵さんは覚に聞いたんだ。

「あなたは、この様な経験は初めてですか?」

覚が聞き返す。

「この様な経験?」

「そうです。この様に、見えてはいけないものが見たりする体験です」

「…はい。初めてです」

「そうですか。不思議なこともあるものです」

「…俺…」

覚が何か喋ろうとしていた。そこにいた全員が覚を見た。

離塵「はい」

覚「俺…死ぬんでしょうか?」

そう言った覚の腕は、正座した膝の上で突っ張っているのに、ガクガクと震えていた。すると離塵さんは静かに一言一言を区切るように答えた。

「はい。このままいけば。確実に」

覚は言葉を失った。震えが急に止まって、畳を一点食い入るように見つめだした。それを見た樹が口を挟んだ。

「…死ぬって」

「持って行かれるという意味です」

意味を説明されたところで俺達はわからない。何に何を持って行かれるのか。更に離塵さんは続けた。

「話がわからないのは当然です。修くんは、堂へ行った時に何か違和感を感じませんでしたか?」

離塵さんが堂といっているのは、どうやらあの旅館の2階の場所らしかった。それで俺は答えた。

「音が聞こえました。あと、変な呼吸音が。2階の扉にはお札の様なものが沢山貼ってありました」

「そうですか。気づいているかも知れませんがあそこには、人ではないものがおります」

あまり驚かなかった。事実、俺もそう思っていたからだ。

「修くんはあの場所で、その人ではないものの存在を耳で感じた。本来ならば人には感じられないものなのです。誰にも気づかれず、ひっそりとそこにいるものなのです」

そう言うと、離塵さんはゆっくりと立ち上がった。

「覚くん、今は見えていますか?」

「いえ。ただ音が、さっきから壁を引っかく音が凄くて」

「ここには入れないということです。幾重にも結界を張っておきました。その結界を必死に破ろうとしているのですね。しかし、皆さんがいつまでもここに留まることは出来ないのです。

今からここを出て、隠堂(オンドウ)へ行きます。覚くん、ここから出ればまたあのものたちが現れます。また苦しい思いをすると思います。

でも必ず助けますから、気をしっかり持って付いて来てください」

覚はカクカクと首を縦に振っていた。

そうして、離塵さんに連れられて俺達はその家を出てすぐ隣の鳥居をくぐり、石段を登った。民宿の旦那さんは家を出るまで一緒だったが、おっさんたちと何やら話をした後、離塵さんに頭を下げて行ってしまった。

知っている人がいなくなって一気に心細くなった俺達は、3人で寄り添うように歩いた。特に覚は、目を左右に動かしながら背中を丸めて歩いていて、明らかに憔悴しきっていた。だから俺達はできる限り、覚を真ん中にして二人で守るように歩いた。

石段を登り終わる頃、大きな寺が見えてきた。だが離塵さんはそこには向かわず、俺達を連れて寺を右に回り奥へと進んだ。そこにはもう一つ鳥居があり、更に石段が続いていた。

鳥居をくぐる前に離塵さんが覚に聞いた。

「覚くん、今はどんな感じですか」

「二本足で立っています。ずっとこっちを見ながら、付いてきてます」

「そうですか。もう立ちましたか。よっぽど覚くんに見つけてもらえたのが嬉しかったんですね。ではもう時間がない。急がなくてはなりません」

そして石段を上り終えると、さっきの寺とは比べ物にならない位小さな小屋がそこにあり、離塵さんはその小屋の裏へ回り、俺達も後に続いた。

離塵さんは、この小屋に一晩篭もり、憑きモノを祓うのだと言った。そして、中には明りが一切ないこと、夜が明けるまでは言葉を発っしてはならないこと俺達に言い聞かせた。

「もちろん、携帯電話も駄目です。明りを発するものは全て。食ったり寝たりすることもなりません」

どうしても用を足したくなった場合はこの袋を使用するようにと、布の袋を渡された。

その後、俺達に、竹の筒みたいなものに入った水を一口ずつ飲ませ、自分も口に含むと俺達に吹きかけてきた。そして小さな小屋の中に入るように言った。

俺達は順番に入ろうとしたんだが、覚が入る瞬間、口元を押さえて外に飛び出して吐いたんだ。離塵さんが慌てた様子で聞いてきた。

「あなたたち、堂に行ったのは今日ではないですよね?」

「昨日です」と俺が答える。

「おかしい。一時的ではあるが身を清めたはずなのに、隠堂に入れないとは」

言ってる意味がよく分からなかった。すると離塵さんは覚のヒップバッグに目をつけ、

「こちらに滞在する間、誰かから何かを受け取りましたか?」

俺は特に思い浮かばず、だが樹が言ったんだ。

「今日、給料もらいましたけど」

当たり前すぎて忘れてた。そういえば給料も貰いものだなって妙に感心したりして。

俺「あ、あと巾着袋も」

樹「おにぎりも。もらい物に入るなら」

給料を貰った時に女将さんにもらった小さな袋を思い出した。そして美咲ちゃんには朝、おにぎりを作って貰ったんだった。

離塵さんはそれを聞くと、覚に話しかけた。

「覚くん、それのどれか一つを今、持っていますか?」

「おにぎりはデカイ鞄の方に入れてありますけど、給料と袋は、今持ってます」

覚はそう言ってバッグからその二つを取り出した。離塵さんは、まず巾着袋を開けた。そして一言「これは…」と俺達に見えるように袋の口を広げた。

中を覗き込んで俺達は息を呑んだ。

そこには、大量の爪の欠片が詰まっていた。俺の足に張り付いていたものと一緒だった。見覚えのある、赤と黒ずんだものだった。

覚は、また吐いた。俺も吐いた。周辺が汚物の臭いで一杯になったが、離塵さんは眉ひとつ動かさない。

離塵さんは、覚の持ち物を全て預かると言い、俺達2人も持ち物を全て出すように言った。

俺は、携帯と財布を離塵さんに手渡し、旅行鞄の方に入っている巾着袋を処分してもらえるよう頼んだ。離塵さんは頷き、再度覚に竹筒の水を飲ませ、吹きかけた。

そして俺達3人が隠堂の中に入ると、

離塵「この扉を開けてはなりません。皆、本堂のほうにおります。明日の朝まで、誰もここに来ることはありません。そして、壁の向こうのものと会話をしてはなりません。

この隠堂の中でも言葉を発してはなりません。居場所を教えてはなりません。これらをくれぐれもお守りいただけますよう、お願いします」

そう言って俺達の顔を見渡した。俺達は頷くしかなかった。この時既に言葉を発してはならない気がして、怖くて何も言えなかったんだ。

離塵さんは俺達の様子を確認すると、扉を閉め、そのまま何も言わず行ってしまった。隠堂の中はひんやりしていた。実際ここで飲まず食わずでやっていけるのかと不安だったが、これなら一晩くらいは持ちそうだと思った。

建物自体はかなり古く、壁には所々に隙間があった。といってもけっこう小さいものだけど。まだ昼時ということもあり、外の光がその隙間から入り、樹と覚の顔もしっかり確認できた。

顔を見合わせても何も喋ることができないという状況は、生まれて初めてだった。

「大丈夫だ」という意味を込めて俺が頷くと、樹も覚も頷き返してくれた。

暫くすると、顔を見合わせる回数も少なくなり、終いにはお互い別々の方向を向いていた。

喋りたくても喋れないもどかしさの中、あとどれくらいの時間が残っているのか見当も付かない俺達は、ただただ呆然とその場にいることしかできなかったんだ。

途方もない時間が過ぎていると感じているのに、まだ外は明るかった。

すると樹がゴソゴソと音を立て出した。何をしているのかと思い、あまり大きな音を出す前に止めさせようと思って樹の方に向き直ると、樹は手に持った紙とペンを俺達に見せた。

こいつは、離塵さんの言うことを聞かずに密かにペンを隠し持っていたのだ。そして紙は、板ガムの包み紙だった。まあメモ用紙なんて持っているはずない俺達なので、きっとそれしか思い浮かばなかったんだろう。

『こいつ何やってんだよ』

一瞬そう思った俺だが、意思の疎通ができないこの状況で極限に心細くなっていた所為もあり、樹の取った行動に何も言う事が出来なかった。

寧ろひとつの光というか、上手く説明できないんだが、とにかく凄く安心したのを覚えてる。

樹はまず自分で紙に文字を書き、俺に渡してきた。

『みんな大丈夫か?』

俺は樹からペンを受け取り、なるべく小さく、スペースを空けるようにして書き込んだ。

『俺は今のところ大丈夫、覚は?』

そして覚に紙とペンを一緒に手渡した。

『俺も今は平気。何も見えないし聞こえない』

そして樹に紙とペンが戻った。こんな感じで、俺達の筆談が始まったんだ。

樹『ガム残り4枚。外紙と銀紙で8枚。小さく文字書こう』

俺『OK。夜になったらできなくなるから今のうちに喋る』

覚『わかった』

樹『今何時くらい?』

俺『わからん』

覚『5時くらい?』

樹『ここ来たの1時くらいだった』

俺『なら4時くらいか』

覚『まだ3時間か』

樹『長いな』

こんな感じで他愛もない話をして1枚目が終わった。すると樹が書いてきた。

樹『修、文字でかい』

俺は謝る仕草を見せた。すると樹は俺にペンを渡してきたので、

俺『腹減った』

と書き込み覚に渡した。

そして覚が何も書かずに樹に紙を渡した。

すると樹は

樹『俺も』

と書いて俺に渡してきた。

あれだけ心細かったのに、いざ話すとなるとみんな何も出てこなかった。俺は、日が沈む前に言っておかなければならないことを書いた。

俺『何があっても、最後までがんばろうな』

覚『うん』

樹『俺、叫んだらどうしよう』

俺『なにか口に突っ込んどけ』

覚『突っ込むものなんてないよ』

樹『服脱いでおくか』

俺『てか、何も起きない、そう信じよう』

覚は俺の書いた言葉にはノーコメントだった。俺も書いたあと、自分で何を言ってるんだろうと思った。

離塵さんは、何も起きないとは一言も言っていなかった。寧ろ、これから何が起こるのかを予想しているような口ぶりで俺達にいくつも忠告をしたんだ。

そう考えると俺達は、一刻も早く時間が過ぎてくれることを願っている一方で、本当は夜を迎えるのが凄く怖かったんだ。

夜だけじゃない、その瞬間でさえ、本当は怖くてしょうがなかった。唯一の救いが、互いの存在を目視できるということだっただけで。

俺の一言で空気が一気に重くなってしまった。俺はこの空気をどうにかしようと、覚の持っていた紙とペンをもらい、

俺『何か喋れ時間もったいない』

と書いて樹に渡した。他人任せもいいとこ。樹は一瞬困惑したが、少し考えて書き出し、俺に渡してきた。

樹『じゃあ、帰ったら何するか』

俺『いいね。俺はまずツタヤだな』

覚『なんでツタヤ』

俺『DVD返すの忘れてた』

樹『うそ!どんだけ延泊?』

まあ、嘘だった。どうにかして気を紛らわせたかったからなんでもいいやって適当に書いた。結果、雰囲気はほんの少しだが和み、樹も覚もそれぞれ帰ったら何をするかを書いた。

少しずつだが、ゆっくりと俺達は静かな時間を過ごした。そして残りの紙も少なくなった頃、覚はある言葉を紙に書いた。

『俺は離塵さんに言われたことを必ず守る。死にたくない』

俺も樹も、最後の言葉を見つめてた。俺は「死にたくない」なんて言葉、生まれてこの方本気で言ったことなんかない。きっと樹もそうだろう。

死ぬなんて考えていなかったからだ。

死を間近に感じたことがないからだ。

それを、今目の前で心の底から言う覚がいる。その事実が凄く衝撃的だった。

俺は覚の目をしっかりと見つめ、頷いた。

その後は特に何も話さなかったが、不思議と孤独感はなかった。

お互いの存在を感じながら、日が暮れるのを感じていた。

隠堂の外では蝉が鳴いていた。なにか違和感を感じた。蝉の声に混じって他の音が聞こえるんだ。耳を凝らすと、段々その音がはっきりと聞こえるようになった。

俺は考えるより先に確信した。あの呼吸音だって。

覚を見た。薄暗くて分かりづらかったが、覚に気づいている気配はなかった。覚には聞こえないのか?そういえば覚って呼吸音について言ってたっけ?もしかしてあれは聞いたことがないのか?

頭の中で色々な考えが浮かんだ。すると硬直する俺の様子に気づいた覚が、周りをキョロキョロと見回し始めた。

この状況の中で、神経が過敏にならないはずがなかった。俺の異変にすぐ気づいたんだ。

すると、覚の視線が一点に止まった。俺の肩越しをまっすぐ見つめていた。白目が一気にデカくなり、大きく見開いているのがわかった。

樹も覚の様子に気が付き、覚の見ている方を見ていたが何も見つけられないようだった。俺は怖くて振り返れなかった。

それでも、あの呼吸音だけは耳に入ってくる。ソレがすぐそこにいることがわかった。動かず、ただそこで「ヒューッヒュー」といっていた。

暫く硬直状態が続くと、今度は俺達のいる隠堂の周りを、ズリズリとなにか引きずるような音が聞こえ始めた。樹はこの音が聞こえたらしく、急に俺の腕を掴んできた。

その音は、隠堂の周りをぐるぐると回り、次第に呼吸音が「きゅっ…きゅえっ…」っていう何か得体の知れない音を挟むようになった。

俺には音だけしか聞こえないが、ソレがゆっくりと隠堂の周りを徘徊していることは分かった。

樹の腕から心臓の音が伝わってくるのを感じた。覚を確認する余裕がなかったが、固まってたんだと思う。全員、微動だにしなかった。

俺は恐怖から逃れるために、耳を塞いで目を瞑っていた。頼むから消えてくれと、心の中でずっと願っていた。

どれくらい時間が経ったかわからない。ほんの数分だったかも知れないし、そうでないかも知れない。目を開けて周りを見回すと、隠堂の中は真っ暗で、ほぼ何も見えない状態だった。

そしてさっきまでのあの音は、消えていた。恐怖の波が去ったのか、それともまだ周りにいるのか、判断がつかず動けなかった。そして目の前に広がる深い闇が、また別の恐怖を連れて来たんだ。

目を凝らすが何も見えない。「いるか」「大丈夫か」の掛け声さえ出せない。

ただ樹はずっと俺の腕を握ってたので、そこにいるのが分かった。俺はこの時猛烈に覚が心配になった。覚は明らかに何かを見ていた。

暗がりの中で、覚を必死に探すが見えない。

俺は、樹に掴まれた腕を自分の左手に持ち直し、樹を連れて覚のいた方へソロソロと歩き出した。なるべく音を立てないように、そして樹を驚かせないように。

暗すぎて意思の疎通ができないんだ。誰かがパニックになったら終わりだと思った。

どこにいるか全くわからないので、左手に樹の腕を握ったまま、右手を手前に伸ばして左右にゆっくり振りながら進んだ。すると指先が急に固いものに当たり、心臓がボンっと音を立てた。

手に触れたそれは、手触りから壁だということがわかった。おかしい、覚のいた方角に歩いてきたのに覚がいない。

俺は焦った。更に壁を折り返してゆっくりと進んだ。だがまた壁に行き着いた。途方に暮れて泣きそうになった。「覚どこだ」の一言を何度も飲み込んだ。

どうしていいかわからなくなり、その場に立ち尽くしたまま樹の腕を強く握った。すると、今度は樹が俺の腕を掴み、ソロソロと歩き出したんだ。

まず、樹は壁際まで行くと、掴んだ俺の腕を壁に触らせた。そしてそのままゆっくりと壁沿いを移動し、角に着いたら進路を変えてまた壁沿いに歩く。

そうやっていくうちに、前を歩く樹がぱたりと止まった。そして、俺の腕をぐいっと引っ張ると、何か暖かいものに触れさせた。それは、小刻みに震える人の感触だった。

覚を見つけたと思った。でもすぐ後に、(これは本当に覚なのか)という疑問が芽生えた。よく考えたら樹もそうだ。ずっと近くにいたが、実際俺の腕を掴んでいるのは樹なのか?

俺は暗闇のせいで、完全に疑心暗鬼に陥っていた。

俺が無言でいると、樹はまた俺の腕を掴み、ソロソロと歩き出した。俺はゆっくりとついていった。すると、ほんの僅かだが、視界に光が見えるようになった。

不思議に思っていると、部屋にある隙間から少しだけ月の明かりが入ってきているのが目に入った。樹はそこへ俺達を連れて行こうとしているのだと思った。

何故気付かなかったのか、今、思っても不思議なんだ。暗闇に目が慣れるというのを聞いたことがあったけど、恐怖に呑まれてそれどころじゃなかった。ほんとにそこは真っ暗だったんだ。

とにかく、その時俺はその光を見て心の底から救われた気持ちになった。そして樹に感謝した。後から聞いたんだが、

樹「俺は見えもしなかったし、聞こえもしなかった。なんか引きずってる音は聞こえたんだけどな。でもそのおかげで、お前達よりは余裕があったのかも」と言っていた。大した奴だって思った。

光の下に来ると、樹の反対側の手に覚の腕が握られているのが見えた。月明かりで見えた覚の顔は、汗と涙でぐっしょり濡れていた。何があったのか、何を見たのか、聞くまでもなかった。

夜は昼と違って、凄く静かで、遠くで鈴虫が鳴いていた。

俺達は暫くそこでじっとしていた。恥ずかしながら、3人で互いに手を取り合う格好で座った。ちょうど円陣を組む感じで。

あの状態が一番安心できる形だったんだと思う。そして何より、例え僅かな光でも、相手の姿がそこに確認できるだけで別次元のように感じられたんだ。

暫くそうしていると、とうとう予想していたことが起きた。

樹が催したのだ。生理現象だから絶対に避けられないと思っていた。樹は自分のズボンのポケットから離塵さんに貰った布の袋をゴソゴソと取り出すと、立ち上がって俺達から少し離れた。

静寂の中、樹の出す音が響き渡る。なんか、まぬけな音に若干気が抜けて、俺も覚も顔を見合わせてニヤっとした。

その瞬間だった。

「覚くん」

一瞬にして体に緊張が走る。

するとまた聞こえた。俺達が隠堂に入った扉のすぐ外側からだった。

「覚くん」

俺達は声の主が誰か一瞬で分かった。今朝も聞いた、美咲ちゃんの声だ。

「覚くんおにぎり作ってきたよ」

こちらの様子を伺うように、少し間を空けながら喋りかけてくる。抑揚がなく、ボカロの声のようだった。覚の手にぐっと力が入るのが分かった。

「覚くん」

暫くの沈黙の後、突然関を切ったように続いた。

「覚くんおにぎり作ってきたよ」「いらっしゃいませぇ」「おにぎり作ってきたよ」「覚くん」「いらっしゃいませぇ」「おにぎり作ってきたよ」「いらっしゃいませぇ」

「覚くん」

尋常じゃないと思った。美咲ちゃんの声なのに、すげー恐かった。扉の外にいるのは、絶対に美咲ちゃんじゃないと思った。

気付くと樹が俺達の側に戻り、俺と覚の腕を掴んだ。力が入ってたから、こいつにも聞こえてるんだと思った。俺達は3人で、隠堂の扉の方を見つめたまま動けなかった。その間もその声は繰り返し続く。

「いらっしゃいませぇ」

「覚くん」

「おにぎり作ってきたよ」

そしてとうとう、扉がガタガタと音を出して揺れ始めた。

おい、ちょ、待て。

扉の向こうのヤツは扉をこじ開けて入ってくるつもりなんだと思った。俺は扉が開いたらどうするかを咄嗟に考えた。

『全速力で逃げる、離塵さんたちは本堂にいるって言ってたからそこまで逃げて…おい本堂ってどこだ』とか。もうここからどうやって逃げるかしか考えてなかった。

やがてそいつは、ガンガンと扉に体当たりするような音を立てだした。そしてそのまま少しずつ、隠堂の壁に沿って左に移動し始めたんだ。一定時間そうした後にまた左に移動する。その繰り返しだった。

『何してるんだ』

不思議に思っていると、俺はあることに気づいた。俺達のいる壁際には隙間が開いている。そしてそいつは今そこにゆっくりと向かっている。

『もし隙間から中が見えたら』

『もし中からアイツの姿が見えたら』

そう考えると居ても立ってもいられなくなり、俺は2人を連れて急いで部屋の中央に移動した。

移動している。ゆっくりと、でも確実に。

心臓の音さえ止まれと思った。ヤツに気づかれたくない。いや、ここにいることはもう気づかれているのかもしれないけど。恐怖で歯がガチガチといい始めた俺は、自分の指を思いっきり噛んだ。

そして俺は、隙間のある場所に差し掛かったそいつを見た。見えたんだ。月の光に照らされたそいつの顔を、今まで音でしか感じられなかったそいつの姿を。真っ黒い顔に、細長い白目だけが妙に浮き上がっていた。

そして体当たりだと思っていたあの音は、そいつが頭を壁に打ち付けている音だと知った。そいつの顔が、一瞬壁の隙間から消える。外でのけぞっているんだろう。そしてその後すぐ、もの凄い勢いで壁にぶち当たるんだ。

壁にぶち当たる瞬間も、白目をむき出しにしてるそいつから、俺は目が離せなくなった。金縛りとは違うんだ、体ブルブル震えてたし。

ただ見たことのない光景に、意識を奪われていただけなのかも知れないな。

あの勢いで頭を壁にぶつけながら、それでも繰り返し覚の名を呼び続けるそいつは、完全に生きた人間とはかけ離れた存在だった。

結局、そいつは俺達が見えていなかったのか、隙間の場所で暫く頭を打ち付けた後、更にまた左へ左へと移動して行った。

俺の頭の中で、残像が音とシンクロし、そいつが外で頭を打ち付けている姿が鮮明に思い浮かんだ。

正直なところ、そいつがどれくらいそこに居たのかを俺は全く覚えていない。残像と現実の区別がつけられない状態だったんだ。

後から聞いた話だと、そいつがいなくなって静まりかえった後、3人ともずっと黙っていたらしい。

樹は警戒していたから。

覚は恐怖のため動けなかったから。

そして俺は残像の中で延長戦が繰り広げられていたから。

それで樹が俺を光の場所へ連れていこうと腕を掴んだ時、体の硬直が半端なくて一瞬死んだと思ったらしい。本気で死後硬直だと思ったんだって。

覚は覚で、恐怖で歯を食いしばりすぎて、歯茎から血を流してた。樹だけは、やっぱり姿を見ていなかった。

あと、そいつはそこから遠ざかって行く時カラスのように「ア゛ーっア゛ー」と奇声を発していたらしい。その声は、樹だけが聞いていたんだけど。

その二度の襲来によって、その後の俺達の緊張の糸が緩むことはなかった。ただ、神経を張り巡らせている分体がついていかなかった。

みんな首を項垂れて、目を合わせることは一切無かった。覚は、催したものをそのまま垂れ流していたが、樹と俺はそれを何とも思わなかった。

あんなに夜が長いと思ったのは生まれて初めてだ。憔悴しきった顔を見たのも、見せたのも、もちろん人でないものの姿を見たのも。悪い夢のようで、でも何もかも鮮明に覚えている。

隠堂の隙間から光が差し込んできて、夜が明けたと分かっても、俺達は顔を上げられずそこに座っていた。

雀の鳴き声も、遠くから聞こえる民家の生活音も、すべてが心臓に突き刺さる。ここから出て生きていけるのか、本気でそう思ったくらいだ。

強い太陽の光が屋内に入りこんできた頃、遠くからこっちに近づいてくる足音が聞こえた。俺達は自然と身構える。足音はすぐ近くまで来ると、隠堂の裏へ回り入り口の前で止まった。

息を呑んでいると、ガタガタっと音がして扉がゆっくりと開いた。

そこに立っていたのは、離塵さんだった。離塵さんは俺達の姿を見つけると、一瞬泣きそうな顔をして、

「よく、頑張ってくれました」

と言った。

あの時の離塵さんの目は、俺一生忘れないと思う。本当に本当に優しい目だった。

俺は、不覚にも腰を抜かしていた。離塵さんは、俺達の汗と尿まみれの隠堂の中に迷わず入って来て、そして俺達の肩を一人一人抱いた。離塵さんの僧衣から、なんか懐かしい線香の香りがして、

『ああ、俺達、生きてる』

と心の底から思った。そこで俺、子供のように泣いた。

暫くしても立ち上がれない俺を見て、離塵さんはおっさんを呼んできてくれた。そして2人に肩を抱えられながら、前日に居た一軒家に向かった。

途中、行く時に見た大きな寺の横を通ったんだ。その時、俺達3人は叫び声を聞いた。低く、そして急に高くなって叫ぶ人の声だった。

家の玄関に着くと耳元で樹が囁いた。

「さっきのあれ、女将さんの声じゃね?」

まさかと思ったが、確かに女将さんの声に聞こえなくもなかった。だが俺はそれどころじゃないほど疲れていたわけで。

早く家に上げて欲しかったんだが、玄関に出てきた女の人が「すぐお風呂入って」と言う。ま、しょうがない。だって俺達自分でも驚くほど臭かったしね。

そして俺達は、3人仲良く風呂に入った。怖かったから、いきなり一人になる勇気はさすがになかった。風呂を上がると見覚えのある座敷に通され、そこに3枚の布団が敷いてあった。

「まず寝ろ」ということらしい。

ここは安全だという気持ちが自分の中にあったし、極限に疲れていたせいもあった。というか、理屈よりまず先に体が動いて、俺達は布団に顔を埋めてそのまま泥のように眠った。

そういえば、隠堂から出る時、俺は覚に聞いたんだ。

「覚、もう、見えないよな?」

すると覚は、確かな口調で答えた。

「ああ、見えない。助かったんだ。ありがとう」

俺はその一言を聞いて、覚が小便を垂らしたことは内緒にしておいてやろうと思った。俺達は助かったんだ。その事実だけで、十分だった。

目を覚ました俺達は、事の真相を離塵さんに聞かされることになる。そして、人間の本当の怖さと、信念の強さがもたらした怪奇的な現実を知るんだ。

後編

俺達は死んだように眠り、翌日、離塵さんの声で目を覚ました。

「皆さん、起きれますか?」

特別寝起きが悪い樹を、いつものように叩き起こし、俺達は離塵さんの前に3人正座した。

「皆さん、昨日は本当によく頑張ってくれました。無事、憑き祓いを終えることができました」

そう言って離塵さんは優しく笑った。

俺達は、その言葉に何と言っていいか分からず、曖昧な笑顔を離塵さんに向けた。聞きたいことは山ほどあったのに、何も言い出せなかった。

すると離塵さんは俺達の心中を察したのか、

「あなたたちには、全てお話しなくてはなりませんね。お見せしたい物があります」

と言って立ち上がった。

離塵さんは家を出ると、俺達を連れて寺の方に向かった。石段を上る途中、覚はキョロキョロと辺りを警戒する仕草を見せた。それにつられて俺も、昨日見たアイツの姿を思い出して同じ行動を取った。

それに気づいた離塵さんは、俺達に聞いた。

離塵「もう大丈夫のはずです。どうですか?」

覚「大丈夫…何も見えません」

俺「俺も平気です」

その返事を聞くと離塵さんはにっこりと笑った。

大きな寺に着くと、ここが本堂だと言われた。離塵さんの後ろに続いて寺の横にある勝手口から中に入り、さっきまで居た座敷とさほど変わらない部屋に通された。

暫くすると、離塵さんは小さな木箱を手に座敷に入って来た。そして俺達の対面に腰を下ろすと、

「今回の事の発端をお見せしますね」

と言って箱を開けた。

3人で首を伸ばして箱の中を覗き込んだ。そこには、キクラゲがカサカサに乾燥したような、黒く小さい物体が綿にくるまれていた。

『何だこれ?』

よく見てみるが分からない。

だがなんとなく、どっかで見たことのある物だと思った。俺は暫く考え、咄嗟に思い出した。

昔、俺がまだ小さい頃、母親がタンスの引き出しから大事そうに木の箱を持ってきたことがあった。そして箱の中身を俺に見せるんだ。すげー嬉しそうに。

箱の中には綿にくるまれた黒くて小さな物体があって、俺はそれが何か分からないから母親に尋ねたんだ。

そしたら母親は言ったんだ。

「これはねぇ、臍『へそ』の緒って言うんだよ。お母さんと、修が繋がってた証」

俺は子供心に『なんでこんなの大事そうにしてるんだろ?』って思った。目の前にあるその物体は、あの時に見た臍の緒に似ているんだと思った。

樹「これ何ですか?」

離塵「これは、臍の緒ですよ」

というか似てるもなにも臍の緒だった。

樹「俺初めて見たかも」

覚「見たことある」

俺「俺も」

「みなさん親御さんに見せてもらったのでしょう。こういうものは、大切に取っておく方が多いですから。この臍の緒も、それはそれは大切に保管されていたものなのです」

俺達は黙って離塵さんの話を聞いていた。

「母親の胎内では、親と子は臍の緒で繋がっております。今ではその絆や出産の記念にと、それを大切にする方が多いですが、臍の緒には色々な言い伝えがあり、昔はそれを信じる者も多かったのです」

覚「言い伝え?」

「そうです。昔の人はそういう言い伝えを非常に大切にしておりました。今となっては迷信として語られるだけですが」

そう前置きをして離塵さんは臍の緒に関する言い伝えを教えてくれた。

主に『子を守る』という意味を持っているが、解釈は様々。『子が九死に一生の大病を患った際に煎じて飲ませると命が助かる』とか『子に持たせるとその子を命の危険から守る』というのがあって、親が子供を想う気持ちが込められているところでは共通しているらしい。

俺達はその話を聞いて「へぇ」なんて間抜けな返事をしていた。

離塵さんは一息入れると、微かに口元を上げて言った。

「ひとつ、この土地の昔話をしてもよろしいですか? 今回の事に関わるお話として聞いいただきたいのです」

俺達は離塵さんに頷いた。離塵さんの話が始まった。

「この土地に住む者も、臍の緒に纏わる言い伝えを深く信じておりました。土地柄、ここでは昔から漁を生業として生活する者が多くおりました。

漁師の家に子が生まれると、その子は物心がつく頃から親と共に海に出るようになります。ここでは、それがごく普通のしきたりだったようです。

漁は危険との隣り合わせであり、我が子の帰りを待つ母親の気持ちは、私には察するに余りありますが、それは深く辛いものだったのでしょう。

母親達はいつしか、我が子に御守りとして臍の緒を持たせるようになります。

海での危険から命を守ってくれるように、そして行方のわからなくなったわが子が、自分の元へと帰ってこれるようにと」

「帰ってくる?」

俺は思わず口を挟んだ。離塵さんはその言葉に応える。

「そうです。まだ体の小さな子は波にさらわれることも多かったと聞きます。行方の分からなくなった子は、何日もすると死亡したことと見なされます。

しかし、突然、我が子を失った母親は、その現実を受け入れることができず、何日も何日もその帰りを待ち続けるのだそうです。

そうしていつからか、子に持たせる臍の緒には、”生前に自分と子が繋がっていたように、子がどこにいようとも自分の元へ帰ってこれるように”と、命綱の役割としての意味を孕むようになったのだと言います」

皮肉な話だと思った。本来海の危険から身を守る御守りとしての役割を成すものが、いざ危険が起きたときの命綱としての意味も持ってる。

母親はどんな気持ちで子どもを送り出してたんだろうな。

「実際、臍の緒を持たせていた子が行方不明になり無事に帰ってくることはなかったそうです。

しかしある日、”子供が帰ってきた”と涙を流して喜ぶ1人の母親が現れます。これを聞いた周囲の者はその話を信用せず、とうとう気が狂ってしまったかと哀れみさえ抱いたそうです。

何故なら、その母親が海で子を失ったのは3年も前のことだったからです」

覚「どこかに流れついて今まで生きてたとかじゃないんですか?」

「そうですね。始めはそう思った者もいたようです。そして母親に子供の姿を見せてほしいと言い出した者もいたそうなのです」

覚「それで?」

「母親はその者に言ったそうです。”もう少ししたら見せられるから待っていてくれ”と」

どういう意味だ? 帰って来たら見せられるはずじゃないのか?

俺はこの時、理由もなく鳥肌が立った。

「もちろんその話を聞いて村の者は不振に思ったそうですが、子を亡くしてからずっと伏せっていた母親を見てきた手前、強く言うことができずそのまま引き下がるしかできなかったそうです。

しかし次の日、同じ事を言って喜ぶ別の母親が現れるのです。そしてその母親も、子の姿を見せることはまだできないという旨の話をする。村の者達は困惑し始めます。

前日の母親は既に夫が他界し、本当のところを確かめる術が無かったのですが、この別の母親には夫がおりました。そこで村の者達は、この夫に真相を確かめるべく話を聞くことになったそうです。

するとその夫は言ったそうです。”そんな話は知らない”と。母親の喜びとは反対に、父親はその事実を全く知らなかったのです。村人達が更に追求しようとすると、”人の家のことに首を突っ込むな”とついには怒りだしてしまったそうです」

まあ、そうだよな。何にせよ周りの人に家の中のことをごちゃごちゃ聞かれたらいい気はしないだろうな、なんて思ったりもした。

「その後、何日かするとある村の者が、最初に子が戻ってきたと言い出した母親が、昨晩子共を連れて海辺を歩く姿を見たと言い出します。

暗くてあまり良く見えなかったが、手を繋ぎ隣にいる子供に話しかけるその姿は、本当に幸せそうだったと。

この話を聞いた村の者達は皆、これまでの非を詫びようと、そして子が戻ってきたことを心から祝福しようと、母親の家に訪ねに行くことにしたそうです。

家に着くと、中から満面の笑顔で母親が顔を出したそうです。村の者達はその日来た理由を告げ、何人かは頭を下げたそうです。

すると母親は、”何も気にしていません。この子が戻って来た、それだけで幸せです”と言いながら、扉に隠れてしまっていた我が子の手を引き寄せ、皆の前に見せたそうです。

その瞬間、村の者達はその場で凍りついたそうです」

「その子の肌は、全身が青紫色だったそうです。そして体はあり得ない程に膨らみ、腫れ上がった瞼の隙間から白目が覗き、辛うじて見える黒目は左右別々の方向を向いていたそうです。

そして口から何か泡のようなものを吹きながら母親の話しかける声に寄生を発していたそうです。それはまるでカラスの鳴き声のようだったと聞きます。

村の者達は、子供の奇声に優しく笑いかけ、髪の抜け落ちた頭を愛おしそうに撫でる母親の姿を見て、恐怖で皆その場から逃げ出してしまったのだそうです。

散り散りに逃げた村の者達はその晩、村の長の家に集まり出します。何か得体の知れないものを見た恐怖は誰一人収まらず、それを聞いた村の長は自分の手には負えないと判断し、皆を連れてある住職の元へ行くことにします。

その住職というのが、私のご先祖に当たる人物らしいのですが…。

相談を受けた住職は、事の重大さを悟りすぐさま母親の元に向かいます。そして母親の横に連れられた子を見るや、母親を家から引きずり出し寺へと連れて帰ったそうです。

その間も、その子は住職と母親の後をずっと付いてきて奇声を発していたのだとか。

寺に着くとまず結界を強く張った一室に母親を入れ、話を聞こうとします。しかし、一瞬でも子と離れた母親は、その不安からかまともに話をできる状態ではなかったと聞きます。

ついには子供を返せと、住職に向かってものすごい剣幕で怒鳴り散らしたのだそうです」

離塵さんはここまで話すと「かわいそうに」と独り言のように呟いた。

樹「それでどうなったんですか?」

「子を想う母は強い。住職が本気で押さえ込もうとしたその力を跳ね飛ばし、そのまま寺を飛び出してしまったのだそうです」

離塵さんは少し情けなそうな顔をしてそう言った。

「その後、村の者と従者を何人か連れて母親の家に行きましたが、そこに母と子の姿はなかったそうです。

そして家の中には、どこのものかわからない札が至る所に貼り付けられ、部屋の片隅には腐った残飯が盛られ異臭が立ち込めていのだとか」

この時、俺は思った。あの旅館の2階で見たものと同じだと。

「そこに居た皆は同じことを思いました。母親は子を失った悲しみから、ここで何かしらの儀を行っていたのだと。

そして信じ難いことだが、その産物としてあのようなモノが生まれたのだと。その想いを悟った村の者達は、母親の行方を村一丸になって捜索します。

住職はすぐさま従者を連れ、もう一人の母親の家に向かいますが、こちらも時既に遅しの状態だったそうです。得体の知れないモノに語りかけ、子の名前を呼ぶ母親に恐怖する父親。

その光景を見た住職は、経を唱えながらそのモノに近づこうとしますが、子を守る母親は住職に白目を向き、奇声を発しながら威嚇してきたのだそうです」

現実味のない話だったのに、なぜかすごく汗ばんだ。

「村の者は恐れ、一歩も近寄れなかったと言います。しかし住職とその従者は臆することなくその母親とそのモノに近づき、興奮する母親を取り押さえ寺へ連れ帰ります。

暴れる母親を抱えながら、背後から付いて来るモノに経を唱え、道に塩を盛りながら少しずつ進んだのだそうです。

寺に着くと住職は母親を隠堂へ連れて行き、体を縛りその中に閉じ込めたのだそうです」

樹「そんなことを…」

樹が哀れみの声を出した。

「仕方がなかったのです。親と子を離すのが先決だった、そうしなければ何もできなかったのでしょう」

離塵さんがしたことではないが、樹は離塵さんから顔を背けた。

少しの沈黙の後、離塵さんは続けた。

「母親の体には自害を防ぐための処置が施されたようですがその詳細は分かりません。

その後、隠堂の周りに注連縄を巻きつけ、住職達はその周りを取り囲むようにして座り経を唱え始めたそうです。

中から母親の呻き声が聞こえましたが、その声が子に気づかれぬよう、全員で大声を張り上げながら経を唱えたそうです。

住職達が必死に経を唱える中、いよいよ子の姿が現れます。子は親を探し、隠堂の周りをぐるぐると回り始めます。

何を以って親の場所を捜すのか、果たして経が役目を成すのかもわからない状態で、とにかく住職達は必死に経を唱えたのです」

そこで離塵さんは一息ついた。

覚「それで、どうなったんですか?」

覚の声は恐る恐るといった感じだった。

「隠堂の周りを回っていたそのモノは、次第に歩くことを困難とし、四足歩行を始めたそうです。

その後、四肢の関節を大きく曲げ、蜘蛛のように地を這い回ったそうです。それはまるで、人間の退化を見ているようだったと。

そしてなにやら呻き声を上げたかと思うとそのモノの四肢は失われ、芋虫のような形態でそこに転がっていたのだとか。

そしてそのモノは夜が明けるにつれて小さくすぼみ、最終的に残ったのが、臍の緒だったのです」

俺は、離塵さんの話に聞き入っていた。まるで自分達の話に毛が生えて、昔話として語られているような感覚だった。樹が聞いた。

「え、もしかしてその臍の緒って…」

すると離塵さんは静かに答えた。

「今朝、隠堂奥の岩の上に転がっていたものです」

「マジかよ…」

覚は呆然として呟いた。

「なんで? なんで俺達なんですか?」

「詳しくはわかりません。この寺には、代々の住職達の手記が残されていますが、母親でない者にこのような現象が起きた事例は見当たりませんでした。

何より、肝心の母親の行った儀式について。これがまだ謎に包まれたままなのです」

「母親に聞かなかったんですか?」

畳み掛ける覚。

「聞かなかったのではなく、聞けなかったのです」

ポカンとしていると離塵さんはまた話し始めた。

「住職達が隠堂を開け中を確認すると、疲れ果ててぐったりした母親がいたそうです。子を求めて一晩中叫んでいたのでしょう。

すぐさま母親を外に運びだし手当てをしましたが、目を覚ました時には、母親は完全に正気を失っておりました。

二度も子を失った悲しみからなのか、はたまた何か禍々しいモノの所為なのか、それも分かりかねますが。

そして村の者が捜索していたもう一人の母親ですが、一晩経を読み上げ疲れ果てた住職達の元に、発見の知らせが届いたそうです。近海の岸辺に遺体となって打ち上げられていたと。

母親は体中を何かに食い破られており、それでいて顔はとても幸せそうだったとあります。

何が起きたのかはわかりませんが、住職の手記にはこうありました。『子に食われる母親の最後は、完全な笑顔だった』と」

信じられないような話なんだが、俺達は離塵さんの話す言葉一つ一つをそのまま飲み込んだ。

「遺体となって見つかった母親の家は、村の者達による話し合いで取り壊されることとなり、その際に家の中から母親の書いたものらしいメモが見つかったそうです」

そう言って離塵さんはそのメモの内容を俺達に説明してくれた。簡単に言うと、儀式を始めてからの我が子を記録した成長記録のようなものだったそうだ。

どんな風に書かれていたのかは憶測でしかないんだが、内容は覚えているので以下に書く。

X日 堂を作り始める

X日 変化なし

X日 △△『子の名前』が帰ってくる

X日 動けない

X日 手足が生える

X日 這う

X日 四つ足で動き回る

X日 言葉を発する

X日 立つ

この成長記録に、母親の心情がビッシリと書き連ねてあったらしい。

ちなみに、もう一人の母親は、屋根裏に堂を作っていたらしく、父親はその存在に全く気づいていなかったのだそうだ。

「私もすべてを理解しているとは言えませんが、この母親の成長記録と住職の手記を見比べると、そのモノは自分の成長した過程を遡るようにして退化していったと考えられませんか?」

確かにその通りだと思った。そして離塵さんは、それ以上の言及を避けるように話を続けた。

「これ以降手記にも、非常に稀ですが同じような事象の記述が見られます。

だがその全てに、母親達がいつどのようにしてこの儀を知るのかが明記されていないのです。

それは全ての母親が、命を落とす若しくは、話すこともままならない状態になってしまったことを意味しているのです」

離塵さんは早期に発見できないことを悔やんでいると言った。

「今回の現象は初めてのことで、私自身もとても戸惑っているのです。

何故母親ではないあなたがそのモノを見つけてしまったのか。

子の成長は母親にしか分からず、共に生活する者にもそれを確認することはできないはずなのです」

『そんなデタラメな話ありなのか?』と思った。

そして覚が、話の核心を知ろうと、恐る恐る質問した。

「あの、母親って…もしかして女将さん…真由子さんなんですか?」

離塵さんは少し黙り、答えた。

「その通りです。真由子さんは、この村出身の者ではありません。○○さん『旦那さんの名前』に嫁ぎこの村にやってきました。息子を一人儲け、非常に仲の良い家族でした」

そう言って話してくれた離塵さんの話の内容は、大方予想が付いていたものだった。

真由子さんの一人息子は、数年前のある日海で行方不明になったそうだ。大規模な捜索もされたが、結局行方は分からなかったらしい。

悲しみに暮れた真由子さんは、周囲から慰めを受け、少しずつだが元気を取り戻していったそうだ。

旅館もそれなりに繁盛し、周囲も事件のことを忘れかけた頃、急に旅館が2階部分を閉鎖することになったんだって。

周りは不振に思ったが、そこまで首を突っ込むことでもないと、深く気にかけることはなかったそうだ。

そしてこの結果だ。

どこから情報を得たのか不明だが、真由子さんはあの2階へ続く階段に堂を作り上げそこで儀式を行っていた。

そしてその産物が俺達に憑いてきたという訳だが、ここがこれまでの事例と違うのだと離塵さんは言った。本来、儀式を行った真由子さんに憑くはずの子が、第三者の俺達に憑いたんだ。

考えられる違いは、真由子さんは息子に臍の緒を持たせていなかったということ。

そこの村の人達は、昔からの風習で未だに続けている人もいるらしいが、真由子さんはその風習すら知らなかった。これは旦那さんが証言していたらしい。

そしてそれほど手がかかるわけでもないのに、バイトを3人も雇った。

旦那さんも初めは反対したそうだが、真由子さんに「息子が恋しい。同年代くらいの子達がいれば息子が帰ってきたように思える」と泣きつかれ、渋々承知したそうなんだ。

これは離塵さんの憶測なんだが、真由子さんは初めから、帰ってきた息子が俺達を親として憑いていくことを知っていたんではないかということだった。

結局これらのことを俺達に話したあと離塵さんはこう言った。

「あなた達をあの隠堂に残したこと、本当に申し訳なく思います。しかし、私は真由子さんとあなた達の両方を救わなければならなかった。

あなた達がここにいる間、私達は真由子さんを本堂で縛り、先代が行ったように経を読み上げました。あのモノが隠堂へ行くのか、本堂へ来るのか分からなかったのです」

つまり、俺達に憑いてきてはいるが、これまでの事例からいくと母親の真由子さんにも危険が及ぶと、離塵さんはそう読んでいたってことだ。

俺は、別に離塵さんが謝ることじゃないと思った。それにこの人は命の恩人だろうと思って覚を見ると、肩を震わせながら離塵さんを睨み付けて言ったんだ。

覚「納得いかない。自分の息子が帰ってくりゃ人の命なんてどーでもいいのか?」

離塵「…」

覚「全部吐かせろよ!なんでこんな目に遭わせたのか、それができないなら俺が直接会って聞いてやる!旦那だって知ってたんだろ? それなのに何で言わなかったんだ?」

離塵「○○さんは知らなかったのです」

覚「嘘つくな。知ってるようなこと言ってたんだ」

離塵「この話は、この土地には深く根付いています。○○さんが知っていたのは伝承としてでしょう」

離塵さんが嘘を吐いているようには見えなかった。だが覚の興奮は収まりきらなかったんだ。

「ふざけるな!早く会わせろ。あいつらに会わせろよ!」

俺達は覚を取り押さえるのに必死だった。離塵さんは微動だにせず、覚の怒鳴り声を静かに受け止めていた。

「この話をすると決めた時点で、あなた達には全てをお見せしようと思っておりました。真由子さんのいる場所へ案内します」

と言って立ち上がったんだ。

離塵さんの後をついて、しばらく境内を歩いた。

本堂の中にいるかと思っていたんだが、渡り廊下みたいなのを渡って離れのような場所に通された。

近付くにつれて、なにやら呻き声と何人かの経を唱える声が聞こえてきた。そして、その声と一緒に、

「バタンッバタン」

という音が聞こえた。かなり大きな音だ。

離れの扉の前に立つと、その音はもうすぐそこで鳴っていて、中で何が起きているのかと俺は内心びくびくしていた。

そして離塵さんが離れの扉を開けると、そこには真由子さん一人とそれを取り囲む坊さん達が居た。

俺達は全員、言葉を発することができなかった。

真由子さんは、そこに居たというか…跳ねてた。エビみたいに。うまく説明できないけど、寝た状態で、畳の上で、はんぺんみたいに体をしならせてビタンビタンと跳ねていたんだ。

人間のあんな動きを俺は初めてみた。俺は怖くて真由子さんの顔が見れなかった。正直、前の晩とは違う、でもそれと同等の恐怖を感じた。

呆然とする俺達に離塵さんは言った。

「この状態が、今朝から収まらないのです」

すると樹が耐え切れなくなり、

「俺、ここにいるのキツイです」

と言ったので、一旦外に出ることになった。

音を聞くことさえ辛かった。つい昨日の朝に見た真由子さんの姿とは、まるで別人の様になっていた。

そこから少し離れたところで俺達は離塵さんに尋ねた。憑き物の祓いは成功したのではないかと。

「確かに、あなた達を親と思い憑いてきたものは祓うことができたのだと思います。現にあなた達がいて、ここに臍の緒がある。しかし…」

すると急に覚が言ったんだ。

「そうか…俺が見たのは、1つじゃなかったんだ」

初めは何のことを言ってるのかわからなかったんだが、そのうちに俺もピンときた。覚はあの時、2階の階段で複数の影を見たと言っていなかったか?

「1つではないのですか?」

離塵さんは驚いたように聞き返し、覚がそうだと答えるのを見ると、また少し黙った。そして暫く考え込んでいたかと思うと急に何かを思い出したような顔をして俺達に言ったんだ。

「あなた達は鳥居の家に行ってください。そしてあの部屋を一歩も出ないでください。後から守りを行かせます」

ポカンとする俺達を置いて、離塵さんはそのまま女将さんのいる離れの方に走って行った。

俺達は急に置いてけぼりを食らい、暫く無言で突っ立っていた。

すると離れの方から、複数の坊さんが大きな布に包まった物体を運び出しているのが見えた。その布の中身がうねうねと動いて、時折痙攣しているように見えた。

あの中にいるのは女将さんだと全員が思った。そのまま隠堂の方に運ばれていく様を、俺達は呆然と見ていたんだ。

ふとお互い顔を見合わせると、途端に怖くなり、俺達は早足で家に向かった。

そこからは、説明することが何も無いほど普通だった。家に行って暫くすると、別の坊さんがやって来て「ここで一晩過ごすように」と言われた。

そしてその坊さんは俺達の部屋に残り、微妙な雰囲気の中4人で朝を迎えたというわけ。

次の朝、早めに目が覚めた俺達がのん気にTVを見ていると、離塵さんがやって来た。

俺達は離塵さんの前に並んで話を聞いた。

離塵さんは俺達の憑き祓いは完全に終わったと言った。昨日言っていた通り、俺達に憑いてきたモノは一匹で、それは退化を遂げて消滅したのを確認したんだと。

俺達はそれを聞いて安堵した。

しかし離塵さんはこう続けた。

女将さんを救うことができなかったと。

泣きそうなのか怒っているのか、なんとも言えない表情を浮かべてそう言った。

死んだのかと聞くと、そうではないと言うんだ。俺はその言葉から、女将さんが跳ね回っている姿を思い出した。

恐る恐るそれを聞くと、離塵さんは苦い顔をしただけで、肯定も否定もしなかった。

女将さんの今の状態は、憑きものを祓うとかそういう次元の話ではなく、何かもっと別のものに起因してるんだって。

詳しくは話してくれなかったんだが、女将さんが行った儀式は、この地に伝わる「子を呼び戻す儀」と似て非なるものらしい。

どこかでこの儀の存在と方法を知った女将さんは、息子を失った悲しみからこれを実行しようと試みる。だが肝心の臍の緒は自分の手元にあったわけだ。

ここからは離塵さんの憶測なんだが、女将さんはこれを試行錯誤しながら完成系に繋げたんじゃないかということだった。

自分の信念の元に。そしてそこから得た結果は、本来のものとは別のものだった。堂には複数のモノがおり、そこに息子さんがいたかは分からないと。

離塵さんが言っていた。

この儀の結末は、非常に残酷なものでしかないんだと。それを重々承知の上で、母親達は時にその禁断の領域に足を踏み入れてしまう。

子を失う悲しみがどれ程のものなのか、我々には推し量ることしかできないが、心に穴の開いた母親がそこを拠り所としてしまうのは、いつの時代にもあり得ることなのではないかと。

覚は、女将さんのこれからを執拗に聞いていたが、離塵さんは何も分からないの一点張りで、俺達は完全に煙に巻かれた状態だった。

俺達が離塵さんと話終えると、部屋に旦那さんが入ってきた。俺は正直ぎょっとした。

顔が土色になって、明らかにやつれ切った顔をしてたんだ。そして、俺達の前に来ると泣きながら謝って来た。

泣きすぎて何を言ってるのかは全部聞き取れなかったんだけど、俺達は旦那さんのその姿を見て誰も何も言えなかった。

俺達に申し訳ないことをしたと泣いているのか、それとも女将さんの招いた結果を思って泣いているのか、どっちだったんだろうな。

今となってはわかんねーな。

その後、俺達は何度も離塵さんに確認した。これ以降俺達の身には何も起きないのか?と。

すると離塵さんは困ったような顔をしながら「大丈夫」だと言った。

その後、離塵さんの所にタクシーを呼んでもらって俺達は帰ることになった。

一応、昨日の朝俺を家まで運んでくれたおっさんが駅まで同乗してくれることになったんだが…。

このおっさんがやたら喋る人で、それまでの出来事で気が沈んでる俺達の空気を一切読まずに一人で喋くりまくるんだ。そんでこのおっさんは、

「それにしても、子が親を食うなんて、蜘蛛みたいな話だよなぁ」

と言ったんだ。

俺達は胸糞悪くなって黙ってたんだけど、おっさんは一人で続けた。

「お前達、ここで聞いた儀法は試すんじゃねーぞ。自己責任だぞ」

そう言って笑うんだ。

俺達の気持ちを和らげようとして言ってるのか本気でアホなのかわかんなかったけど、一つ確かなことがあった。

俺達は、離塵さんに真実を隠されて教えられたんだ。

儀の方法は、その結果と一緒にこの地に伝わっているんだ。このおっさんが知っていて離塵さんが知らないはずがないだろう。

これだけの体験をさせておいて、結局は大事なところを隠して話されたことに凄くショックを受けた。

離塵さんを信用していた分、なんか怒りにも似たものが湧き上がってきたんだ。

タクシーが駅に着くと、おっさんが金を払うと言ったが俺達は断った。

早くこの場所から逃げ出したい、その一心だった。

離塵さんが「大丈夫」と言った一言も、全部、嘘に思えてきた。

それでも俺達には、あの寺に戻る勇気はなくて、帰りの電車をただただ無言で待つことしかできなかったんだ。

その後、帰って来てからは、なんともない。まあ、なんともないからここに書き込めてるわけだけど。

「もう二度とあの場所へは行かない」

3人で話していてもあの出来事の話をすることはない。でも3人ともその思いは確かなはずだ。

あと、覚はあれから蜘蛛を見るのがどうもダメらしい。成長過程のアイツの姿を見てるからね。

俺はというと、今は普通に社会人やってます。若干、暗闇が苦手になったくらい。人間のど元過ぎれば熱さ忘れるってあながち嘘じゃないかもしれないな。

本当の本当に後日談なんだが、その話を他の友達に話したんだ。その友人も俺達3人の様子を見て、一応信じてはくれたんだけど。

でも、そいつら話を聞いた後、興味半分で旅館に電話を掛けてみたんだって。そしたら、電話に出たのは普通のおばさんだったらしい。そいつら俺達に言うんだよ。

電話口の向こうで異様な数のカラスがアーアー鳴いていたと…。