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【野球界のキムタク】若くして亡くなった木村拓也氏の経歴とは?


プロ野球選手、木村拓也。某国民的人気有名アイドルと字こそ違えど同じ名前で、「プロ野球界のキムタク」として親しまれました。野球を知らない人からすれば名前のインパクトばかりが目立ちますが、間違いなくチームに欠かせない一流のユーティリティープレーヤーでした。


写真:気になるスコープ!

 

入団時


写真:大洲体協 陸上部 駅伝ブログ

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木村拓也は高校時代は甲子園にも出場し、高校通算35本塁打の長打力と遠投120mの強肩を誇る大型捕手として1990年にドラフト外で日本ハムファイターズに入団しました。誰もが夢を見たくなるほどの素材。プロでも輝かしい毎日が待っているはずでした。しかし、プロ野球の世界は化け物揃い。木村は捕手としてなかなか芽が出ず、内野手や外野手の練習に挑戦するようになりました。普通の選手なら腐ってしまうところですが、「プロの世界で生き残るためにはなんでもやる」という木村の思いが好転をもたらしたのです。point 242 | 1

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バイプレーヤーとしての存在意義


写真:水戸光圀 西山荘 – FC2

1994年オフ、木村は広島東洋カープに入団しました。すると投手以外はどこでも守れる器用さを買われ、守備固めとして一軍に定着するようになりました。すぐに木村の守備力は認められるようになりましたが、打撃に課題がありました。「このままではレギュラーになれない」―そう考えた木村は、スイッチヒッターに転向しました。打者がスイッチに転向するには通常の何倍もの練習が必要で、ほとんどの選手は途中で諦めてしまいますが、木村は自分の意思を貫き通し、スイッチヒッターとして主に二塁手のレギュラーに定着しました。そこには確かに「自分が生き残る道はこれしかない」というバイプレーヤーとしての強い意志が感じられたのです。
バイプレーヤーとしての木村の集大成が、2004年のアテネオリンピックです。スター揃いの中でバイプレーヤーの木村が代表に選ばれた―このことが、木村がプロ野球界で必要不可欠な存在になった何よりの証明でした。point 490 | 1

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突然の死


写真:yaplog.jp

2009年に現役引退後、読売ジャイアンツの一軍内野守備走塁コーチに就任した木村を、突然の悪夢が襲います。球場で試合前のノックを打っている最中に、突然意識を失い倒れたのです。病院に搬送されましたが、数日後に亡くなりました。死因はクモ膜下出血。現役を退いて間もない出来事でした。葬儀には3000人ほどのファンや関係者が駆けつけ、早すぎる死を悼みました。

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写真:mainichi.jp

誰しもが、スターになりたいという期待を抱いて生きています。しかしどの世界でも、華々しく活躍できるのはほんの僅かです。何もかもが思い通りに行かないとき、誰もが自分の存在意義に悩み、苦しみますが木村拓也はその答えを生涯を通じて教えてくれました。スターになれなくてもいい、脇役でもいい、他の誰にも真似できない自分になればいいということを。

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